檜山 東樹

山中貞雄の冒険-夭折の巨匠覚書 前編

山中貞雄

山中貞雄



 山中貞雄は、溝口健二、黒澤明、小津安二郎といった日本映画の巨匠たちとほぼ同時代人の映画監督だが、その名は彼らほど一般には知られていない。知名度だけではなく、今日観ることのできる作品もわずか3作と少ない。だが彼は、日本映画がサイレントからトーキーに移行する時代に活躍し、若くして“天才”・“巨匠”とよばれた。にもかかわらず、彼が多くに知られていないのは、不運にも28歳で落命し逝ってしまったためだ。

 だから彼は、後年に溝口が、黒澤が、そして親友でもあった小津が国際的な映画祭で絶賛され、日本映画が世界に栄光を標すこととなるのを知る由もない。だが、もし彼が戦中戦後を生き抜いていたら、三巨匠と比肩する、いや、むしろ彼ら以上に、世界が瞠目する映画作家になっていたのではないだろうか。

アラカン、天才を見出す!

 山中貞雄は1909(明治42)年、当時の映画の都・京都に生まれた。父親は京扇子の職人だったという。“カツキチ”(活動写真気狂い)の幼少期を送り、旧制京都市立第一商業学校で1年先輩のマキノ雅博(後に雅弘)と出会う。そのツテで、卒業後マキノ御室撮影所へ入社した。「日本映画の父」と言われる牧野省三が興した伝説的映画製作会社だ。

"マキノ雅弘"

マキノ雅弘(正博)

 マキノ雅弘(当時は正博)はその省三の倅で、プロデューサー・監督・脚本家として戦後の日本映画黄金期を築き、プログラムピクチャーの名手と呼ばれた。
 生涯261本の映画を監督したマキノには、映画づくりだけでなく、人の才を見出す力があったと思う。『次郎長三国志』や『日本侠客伝』などの傑作シリーズを監督・プロデュースする一方で、森繁久弥、高倉健、藤純子(現・冨司純子)、梶芽衣子らを、銀幕を代表するスター俳優に育て上げた。

 山中貞雄もまた、マキノ雅弘によって見出され、育てられた一人かも知れない。マキノは一旦は山中を父の撮影所に入社させたものの、長くは置かず、当時独立プロで一家を成そうとしていたアラカンこと嵐寛寿郎に預ける。マキノ御室撮影所で叩き上げるより、その方が早く山中の才能を発揮できる、と考えたようだ。

鞍馬天狗に分する嵐寛寿郎

嵐寛寿郎(鞍馬天狗)

 故竹中労が著した『聞書アラカン一代・鞍馬天狗のおじさんは』によれば、アラカンと山中の出会いは次のようであったという。

 「最初この男に会うたとき、マキノ正博監督の推薦や言うけど、才能あんのかいなと思うた。茫洋としとるんだ。スローモーションですねん。不精ひげを生やしてな、ドテラ着て会社にくる。タバコの空缶、チェリーやったかいな、ドテラ着て帯にくくりつけとる。それに灰たたきますねん、ポンポンと。・・・・コジキやでほんまに。シラミ湧いとるやろ、何とかしてやれと、洋服を買うてやったら、たちまち質に入れて、ドテラをまた着てきよる、往生したんダ。ところが、シナリオを見てたまげた。二度びっくりや、これ天才やないか・・・」

 天下のアラカンがお墨付きを与えた山中の才は間違っていなかった。早速にアラカンのご指名で撮った監督デビュー作『磯の源太 抱寝の長脇差(いそのげんた だきねのながどす)』(1932年;長谷川伸・作、嵐寛寿郎プロダクション・製作、新興キネマ・配給;サイレント)は、「剣戟映画」とよばれた当時のサイレント時代劇映画のスタイルを覆すような斬新な映像が話題となって『キネマ旬報』誌で絶賛され、いきなりこの年のベストテンに選ばれた。山中貞雄22歳の時だ。

トーキー時代は軍靴の音とともに

 時は世界的に映画がサイレントからトーキーへと移行していく時代。日本でも1931(昭和6)年には、初の本格的なトーキー作品『マダムと女房』(五所平之助・監督)が公開された。だが、無声映画に活動弁士が語りを入れ、楽隊が生演奏する独特のスタイルには根強い支持があり、また、トーキーには製作サイド・興行サイドともに多大な設備投資が必要だったことから、その転換には時間がかかった。山中貞雄の作品も、ほぼ半分がサイレントである。その中で『鼠小僧次郎吉』(1933年;日活京都)は日本のサイレント映画の最高傑作と伝わっているが、フィルム・プリントは残念ながら現存していない。

 とは言え、新しいテクノロジーの登場と革新は経済効果追求と相俟って、遠からず旧を陳腐化して駆逐するのが歴史的必然でもある。日本映画も1935年までにはほぼ完全にトーキーへと移行していく。大手による映画製作会社の統合・再編が進み、日活多摩川や松竹大船など、大規模な撮影所が造られたのもこの時期で、トーキー時代がもたらした所産だった。映画の新時代に“活動屋”たちの意気も盛んだったろう。

 だが、時代のより大きな回転軸も、それと歩調を合わすかのように、この時動き始めていた。すなわち、やがては第二次大戦における亡国的敗戦へと結末する日中15年戦争の始まりである。1931(昭和6)年の満州事変を契機として中華民国との間に戦端を開いた大日本帝国は、この頃、東アジア大陸への派兵を拡大しつつあった。日本映画のトーキー時代は、まさに軍靴の音とともに始まったのだ。

大衆小説のヒーロー・丹下左膳

 冒頭記したように、サイレントはもちろんトーキーでも、山中貞雄作品でプリントフィルムが現存しているものは極めて少ない。フィルムがほぼ現存し、現代でも観ることのできるのは『丹下左膳餘話 百萬両の壷』(1935年;日活京都)と、それに続く『河内山宗俊』(1936年;太秦発聲映畫、日活)、そして遺作となった『人情紙風船』(1937年;PCL・東宝)のみ。いずれもトーキー作品で、現在はDVDも出ている。

 その中で、まず筆頭に観るべきは『丹下左膳餘話 百萬両の壷』だろう。画質や音質は別として、これが現代から70年以上前に、しかも、若冠25歳の若者によって撮られた映画とは思えない素晴らしいエンターテイメント映画に作り込まれている。この一作だけでも映画作家・山中の凄さは納得できると思う。
 一曲の浪曲か講談のごとき小気味よいエンターテイメントな構成、軽妙なユーモアと斬新な映像表現。その巧みさには、彼が当時なぜ“若き巨匠”と敬され、今もって“天才”と唱われるのかが理解できる。

 実はこの映画、公開を前にしてお蔵入りにもなりかねない悶着があった。試写を観た原作者サイドから「これは丹下左膳ではない」と製作した日活に強い抗議があり、日活社内でも元社長・横田永之助(当時相談役に退いていたが、依然として社内外に大きな力を持っていた)が「即刻、山中をクビにしろ!」と激怒、それに対して撮影所や興行部門など現場はそれを諒とせず揉めたのだった。

 「丹下左膳」は林不忘(はやしふぼう)が1927(昭和2)年、東京日日新聞に連載した時代小説『新版大岡政談・鈴川源十郎の巻』(後に『魔像・新大岡政談』に改題)の中で、ダークヒーロー的な脇役として登場する隻眼隻腕の剣客。暗い過去を背負った異形のニヒリストとして造形されたキャラクターだった。ところが、この新聞小説が映画化(サイレント)されるとそのアクの強いキャラクターが人気を得、以後、林不忘も左膳を主役とするシリーズ小説を連作するようになる。

 作家・林不忘は本名・長谷川海太郎。35歳の若さで世を去るまでに、谷譲次(たにじょうじ)、牧逸馬(まきいつま)と3つのペンネームを使い分け、時代物から冒険ノンフィクション、実録ミステリーなど多岐のジャンルで健筆を奮い、人気の高かった昭和初期の大衆小説作家である。(「丹下左膳」シリーズを含めた林不忘の時代小説は、現在「青空文庫」からテキスト・ダウンロードし読むことができる。谷譲次、。牧逸馬も同様。)

時代劇の父・伊藤大輔

伊藤大輔監督

映画監督 伊藤大輔

 原作では一登場人物でしかなかった丹下左膳を、一躍大衆的ヒーローにした映画『新版大岡政談』は、マキノプロ、東亜キネマ、日活の3社が競作したが、もっともヒットし観客の支持を集めたのは、大河内傅次郎を主役の大岡奉行と左膳の二役に据えた日活京都のそれだった。監督のメガホンを執ったのは、後に「時代劇の父」とよばれる伊藤大輔である。それまで「チャンバラ活動写真」とよばれていた剣豪物や侠客物の「剣戟映画」に「時代劇」というネーミングを与えたのも伊藤大輔だと言われている。

 伊藤は日活撮影所の大部屋俳優に過ぎなかった大河内傅次郎を早くから起用し、その激しい殺陣とカットバックなどによるスピーディーな場面転換、そして、移動撮影による大胆なカメラワークが斬新で注目を集めていた。大河内主演の『忠次旅日記』(1927年)や『血煙高田の馬場』など、空前の大ヒットを記録する傑作によってサイレント末期のヒット・メーカーでもあった。その伊藤大輔がトーキー第1作としてメガホンをとったのが、日活で三部作として企画された丹下左膳シリーズだった。

"大河内傳次郎肖像"

大河内傳次郎

 トーキー『丹下左膳三部作』の企画は、先に記したようにサイレント映画の『新版大岡政談』で、異形の剣客・丹下左膳というキャラクターがはじめて映像化され、脇役・敵役にもかかわらず人気が高まったことが背景にある。そこで林不忘が左膳を主役に据えたシリーズ小説を新たに書き、これを原作に伊藤大輔が大河内主演で撮ることになったのだった。

 伊藤大輔が描く「丹下左膳」は原作に忠実、というよりむしろ、原作イメージをもっとブラッシュ・アップした、ニヒルで凄みを帯びた、ある面ダークヒーロー的な孤高の剣客である。そうしたキャラクターは、原作における左膳がなぜ隻眼隻腕となったかという経緯に因するものではあるが、そもそも伊藤が「時代劇映画」で専ら描いたもの、すなわち彼にとっての「時代劇」と深く関係しているとも思われる。

 伊藤の「時代劇」の主人公は、封建的価値観の世界で運命に翻弄されながら、それでも「武士の一分」を貫こうとする剣客、「義理」を通すために戦う侠客が多い。彼にとって「時代劇」とは、その時代における特殊な制度・環境・状況と宿命的に戦って生きた人間を描くもので、たった今の時代を生きている人たちと通じる視点や価値観が仮託されるようなことは、まずなかったようだ。

 そういう伊藤の作風は、彼が士族の家に生まれ「武士道」や「武士の世界」にコンプレックスを抱いていたからだ、との評もある。彼の当時のフィルムは完全なものはほとんど残っていないので、彼の時代劇のかたちは確かめようもないが、指摘されるような作風であることは、戦後に中村錦之助(萬屋錦之助)主演で東映で監督した『反逆児』(1961年)からもうなずける。彼が昭和初期のこの当時、警察・軍部からマークされるほどの社会主義者でもあったのも、そうした士族の出自や生い立ちにおける武士道的価値観への屈折した思念と無縁でなかったのでは・・・と思う。

 いずれにせよ、かくしてトーキーの『丹下左膳三部作』はスタートした。それはまさに、伊藤大輔が確立し、後の標準となるような正統的な「時代劇」であり、サイレントから同時音声のトーキーになったことによって迫力とリアリティを増した日本独自の「剣戟映画」だったであろうことは容易に想像できる。そして、期待通り映画はヒットした。
 だが伊藤は、第二部まで撮り終えたところで1934(昭和9)年、永田雅一、溝口健二、山田五十鈴らと第一映画社を設立、日活を退社してしまう。当時は所属する会社や撮影所を越えて映画製作することはできなかったから、その結果、三部作の完結編となる『丹下左膳 尺取横町之巻』が浮いてしまった。そこで伊藤大輔監督の“代打“として指名されたのが、この時期日活京都撮影所に属し、“若き巨匠”と評判の高かった山中貞雄だったのだ。

悩ましい傑作

 ところが山中が撮った「丹下左膳」は、林不忘の原作小説のはもちろん、伊藤がスクリーンに視覚化してきた丹下左膳の世界とそのキャラクターをまったく変えてしまった。

 隻眼隻腕の異形は同じだが、ニヒルで孤高の剣客は、矢場の女将・櫛巻きお藤のヒモで、子ども好きのお人好し、暢気でお茶目、剣は強いがお藤には滅法弱い浪人者に造形され、そんなキャラクターを、既に伊藤映画の剣戟スターとして圧倒的人気を獲得し、近寄りがたい剣豪イメージが定着していた大河内傳次郎が演じるのだ。
 さらに、四代目沢村国太郎(長門裕之・津川雅彦兄弟の父)演じる、原作では二枚目のエリート剣士・柳生源八郎さえ、婿養子で嫉妬深い妻の尻に敷かれている二枚目半にされ、当時「極楽コンビ」の名で知られた喜劇俳優・高勢実乗と鳥羽陽之助の二人がコミカルに絡む・・・、といった具合で、まるでチャンバラ・ホームドラマ。伊藤大輔が監督した前二作に対する恣意的なパロディとしか思えない作品で、原作者及び日活経営陣にはたいへんな顰蹙を買うことになった。

 だがそれは、「武士道とか武士の世界にコンプレックスを抱いていた伊藤に対して、庶民世界を時代劇に導入し展開」(千葉伸夫『評伝山中貞雄』)しようとしていた“若き巨匠”・山中貞雄ならではの会心の作と言えた。それは、伊藤大輔が描いたような、武士道や任侠道の桎梏を生きる孤高の剣豪的ヒーロー譚とは異なり、映画館に集まる多くの観客と同じ庶民の目線に立った新たな時代劇=ホームドラマとしての時代劇だった。しかし、トーキー新時代のエンターテイメント映画として質も完成度も高く、観る者が観れば世代・性別を超えて親しめる傑作で、公開すればヒットは間違いないと予測されたため、日活内部では、この傑作映画をどうするかが悩ましい問題となった。
 結局、社内外を円く収め、この傑作を世に出す手だてとして、伊藤が第二部まで監督したシリーズとは別物の作品として公開することに決着し、タイトルも『丹下左膳餘話 百萬両の壷』となったのだった。

 この経緯は、当時の日活に君臨した横田ら経営役員には、映画作品への芸術的評価はもちろん、興行マーケティングの観点からの眼力を備えている人物がいなかったということでもある。というのも、この問題作『丹下左膳餘話 百萬両の壷』は、いざ公開されると、批評家・観客の双方から絶賛され、高い支持を受けたのだった。その結果、山中のクビも沙汰止みとなる。

 一方これに対して伊藤大輔は、以降の監督作品に対して「時代遅れ」、「形式主義」、「アナクロニズム」といった批判を受けることが多くなっていく。
 そこには、不幸にして自身がサイレント時代に確立した「時代劇」の表現でトーキーへの転換を上手く図れなかったことや、「傾向映画」とよばれた、社会主義者としての思想性が投影された作品に対する内務省の検閲や特高警察などから厳しい抑圧のあったことも影響していると思われるが、それはまた別の機会の話題としよう。

新しい時代劇映画を切り拓こう

 それにつけても、この「悩ましい傑作」問題がが社内外の関係者にフリクションを起こすことは、山中自身ハナから承知の上で、敢えて仕掛けた冒険--「新しい時代劇を切り拓く」という、野心満々の映画冒険だったに違いないと思うのだ。

 と言うのも、この頃の山中は、専ら「時代劇」映画が撮られていた京都を拠点とする新進気鋭の映画監督、脚本家たちと語らい、所属会社の枠を超えて「新しい時代劇映画を切り拓こう」というシナリオ集団「鳴滝組」を結成し活動していた。メンバーは山中の他に、稲垣浩、滝沢英輔、八尋不二、三村伸太郎、藤井滋司、鈴木桃作、そして山中の助監督・萩原遼の8人。いずれも、後に日本映画史に名を記す顔ぶれである。

 彼ら鳴滝組は「梶原金八」の共同ペンネームで22作品を発表し、いずれも時代劇映画の革新を促す傑作として、批評家・観客の双方から高い支持を受けた。当時松竹蒲田撮影所長だった城戸四郎(後の松竹社長)は、「梶原金八」が8人の集団ペンネームであることを知らず、製作部に「梶原金八を引き抜け!」と命じたというエピソードはよく知られているいる。しかも城戸は、8人の中に自社の藤井がいることも後になって知ったという。

 山中たち鳴滝組がめざした「新しい時代劇映画」とは、言うまでもなく伊藤大輔が確立した時代劇映画への反旗であり、革新だった。8人はそういう野心を抱いて旅館の一室に集まり、精力的に執筆に取り組んでいた、そういう折りに山中に「丹下左膳を撮れ」との命が所属する日活から下った。それも、伊藤大輔のシリーズの“代理登板”としてだ。これぞ千載一遇の、まさに「新しい時代劇映画を切り拓」くための願ってもない機会と、彼らは思ったはずだ。

 山中代打の『丹下左膳 尺取横町の巻』、すなわち『丹下左膳餘話 百萬両の壷』の脚本は「梶原金八」ではない。この時代、所属会社を超えた若手集団のシナリオを受け入れるような懐の深さは、日活に限らず日本映画界にはない。だから、製作時には「脚色・三村伸太郎、潤色・三神三太郎、構成・山中貞雄」となっていて、DVDなど現在のクレジットもこれに準じているが、公開時の最終的なクレジットは「構成・監督 山中貞雄」とだけされた。
 なお、このうちの「三神三太郎」は明らかに架空の人物である。それが、山中、三村と助監督・萩原遼以外の日活所属ではない鳴滝組メンバーであろうことは想像に難くない。

 ともあれ、『丹下左膳餘話 百萬両の壷』は山中が、そして鳴滝組の面々が目論んだように「新しい時代劇映画」として世の人々に歓迎された。
 原作を換骨奪胎した山中の丹下左膳映画は、古典落語の世界のような江戸情緒たっぷりの人情喜劇でありながら、ハリウッドのミュージカル映画のようなモダンな明るさとテンポの良さが光る。70年以上前の、サイレントからトーキーにようやく移行したばかりの時代の映画とは思えない、生き生きしたリズムが感じられるのである。

ご存知、大河内節も活かした山中の<冒険>

"「丹下左膳余話 百万両の壷」スチール"

『丹下左膳餘話 百萬兩の壷』スチール。左膳(大河内傳次郎)と櫛巻お藤(喜代三)

 いったい、これはなぜなのか?

 山中貞雄はサイレント末期に映画界に入り、生涯の監督作品のほぼ半数は無声映画である。だが、おそらく彼は、最初からトーキーの、映像と音声を同期させる新しい時代の映画はどう表現すべきか、そのためには何が必要かをサイレントの時代から既に十分研究しつくしていて、しかもそれをどう構成し演出するかという手法やイメージを、自身の感性の抽出しにいっぱい詰め込んでいたのだろうと思われる。
 その抽出しを、あたかもオモチャ箱をひっくり返すようにして、ここぞとばかり「トーキー・ワンダーランド」を広げて見せた一作が、この『丹下左膳餘話 百萬両の壷』であったのだと思う。

 原作者・林不忘には許し難いことだったかも知れないが、軽快でコミカルな「丹下左膳」は、反伊藤大輔の時代劇映画としてだけではなく、これぞ日本のトーキーだ!という「新しい時代劇映画」の冒険的提示でもあったのだろう。

 トーキーではスクリーン上の登場人物に演じている俳優の実声が乗ることによって、観客は、「活動写真」とも言われたサイレントよりずっと実在感のあるドラマを観ることになる。そういうドラマでは、スクリーン上の人物に自分と同じ生身の人間性を感じられる方が感情移入もされやすく、リアリティも増してくる。
 ニヒルで容姿怪異な孤高の剣客よりも、隻眼隻腕の不具でも明るく、剣は滅法強いがシャイでお人好し、お茶目な一面もあるというキャラクターの方が、ずっと人間臭いリアリティがあり、老若男女にも親しまれる魅力的ヒーローになるはずだ。山中や三村たち鳴滝組の面々は、たぶんそう考えたであろうし、事実そういう左膳がスクリーンに登場すると多くから支持され、後に板東妻三郎が、大友柳太朗が、丹波哲郎が、そして近年では豊川悦司が演じた「丹下左膳」も、このとき山中貞雄が創り出したキャラクターを踏襲し、いずれの映画もヒットしている。

 「シェイ(姓)は丹下、名はシャジェン(左膳)」――後々まで物真似芸人たちによって伝えられた大河内傳次郎独特のセリフ回し。これもまた然りだ。

 戦前・戦後を通じて日本映画の大スターで、今も京都嵐山の観光名所となっている回遊式日本庭園の造営者としても名を残している大河内傳次郎は、同時にもっともよく知られた丹下左膳役者だった。伊藤大輔、山中貞雄の両監督作品以外にも、実に16本に及ぶ丹下左膳映画で主演している。
 ところが、現在の福岡県豊前市に医者の子として生まれ育った大河内には九州訛りがあって、役者になってからも、なかなか抜けることがなかった。サイレント時代には何ら差し支えなかったが、トーキーとなると発語の地方訛りは、主役級の俳優としてハンディとなる。サイレント時代から抜擢して大河内を起用してきたのは伊藤大輔だが、トーキーになったときの大河内のセリフに回しについては「アウ、アウですからね・・・、困った」と、後に回想しているほどだ。

 だが山中は、左膳という人物にコミカルで親しみやすい要素を入れて演じさせることで、訛りごと俳優・大河内傳次郎の個性として活かすとともに、伊藤によって開かれた凄みのある剣戟役者にのみ止まらない芝居の幅を大河内から引き出して、名優・大スターへの道を開いた。

 それにしても、やはり大河内の殺陣は素晴らしい。伊藤大輔が専ら起用したワケがよく分かる。残念なことに、本格的な立ち回りシーンは戦後のGHQによる検閲でカットされてしまったため、現存するフィルムではその一部と道場破りのシーンでしか観ることはできないが、これほどしなやかで大きな剣さばきのできる役者は滅多にはいないと思う。彼は学生時代剣道部にいて、実際の試合でも強かったらしい。

 ヒロインの櫛巻きお藤には、鹿児島一の売れっ子芸者から新橋芸者へ、そしてさらに歌手にと転じた喜代三を起用。彼女の歌の上手さ、声の良さが、江戸情緒たっぷりの画面を引き立てている。

時代劇映画のアヴァンギャルド

 加えて、多くのBGMが場面ごとに用いられ楽劇の趣きさえ感じられるのも、この映画『丹下左膳餘話 百萬両の壷』が日本映画史に特筆されるべき傑作である所以だ。
 その曲目には、童歌の『通りゃんせ』もあればムソルグスキーの交響詩『禿げ山の一夜』などクラシックも・・・というバラエティで、これらも山中ならではのトーキー・クリエイティブと言える。

 往年のモノクロフィルムだから、現代の映画と比べればフィルムのトーンに劣性は否めないが、山中独特のローアングルの映像美に、役者の個性を含めたこれらサウンドの巧みな使い方が加わり、“若き巨匠”の鋭いセンスとトーキーによる新しい時代劇映画を創ろうという意気込みの強さがジンジン伝わってくる。その意味で『丹下左膳餘話 百萬両の壷』は、まさに、日本の時代劇映画のアバンギャルドであり、トーキー新時代の前線を切り開いた<冒険>の映画と評したい。

 当時映画館でこの作品を観た人びとが羨ましい。見どころ聞きどころ満載した山中の<冒険>はやたらに面白く、たぶん、館内は大いに盛り上がったことだろう。得意満面の山中の顔が思い浮かぶ。
2009(平成21)年11月、キネマ旬報が創刊90周年を記念して発表した「日本映画・外国映画オールタイム・ベスト・テン」には、日本映画部門第7位に『丹下左膳餘話 百萬両の壺』がランキングされている。普及の名画でもあるのだ。(つづく