堀井 彰

喪失感の由来はなにか?

東京写真美術館で開催されたフランスの写真家R・ドアノー、そして戦前に活躍した堀野正雄の写真展「幻のモダニストー写真家堀野正雄の世界」を見た。ドアノーはブレッソン、ブラッサイとともに写真の魅力を教えてくれた写真家たちの一人である。今回は、生誕百年記念として百八十六点もの作品が展示されていた。時系列で彼の最初期の作品から閲覧して驚かされたのは、その初期から彼の個性が作品に定着されていることだ。人物写真から、街の情景そして彼も参加していた戦時中のレジスタンス運動の写真にも、被写体にレンズを向ける彼の立位置に変化はない。レジスタンス活動を撮影するからといって、イデオロギッシュな視点に移行することもなく、あくまでも、街頭風景、子どもたちをスナップ撮影するのと同じ姿勢を保持していると感じられたことだ。初期の作品から晩年の作品に至るまで、脈みゃくと通底する主調音には断絶感はなかった。だからこそ見るたびに作品に新鮮さを感じられるのではないかと思える。

写真展の惹句に「幻のモダニスト」と冠された堀野正雄の写真には、逆に、断線を感じるのだった。展覧会での眼目の一つに写真集「カメラ・目・×鉄・構成」の作品群がある。産業革命以降の近代機械文明の成果である鉄を素材としたメカニカルな構築物を素材とした写真である。

展示されている「カメラ・目・×鉄・構成」の写真に釘づけにされるという充実した体験は訪れなかった。逆に空虚感というか喪失感といった、負の感情をもたざるをえなかった。いっぽう、同じ時期に、彼が雑誌「犯罪科学」に掲載していた日常生活を撮影したスナップ写真や朝鮮半島の日常生活、風物をスナップした写真には、時代を超えたリアリティーを生々しく感じることが出来た。

この体験の違和感はどこに由来をもつのか。

何年かまえに、日本のシュールレアリストとされる画家たちの展覧会を見たときにも同質の感情を体験した。そのときに、むかし読んだ小説の中の言葉を思い出したことが記憶に残っている。ゼラシネという言葉だった。そのときに目にしたシュールレアリズム絵画作品は戦前に制作された作品である。そして時代の中で、絵画史的な意味はもつのかもしれないが、絵画作品として現在性を秘めている作品は少なかった。絵画の前に立って足が釘づけとなる僥倖は体験できなかった。それは作品の持つモチーフが観念的であり、日本の文化的な水脈に根をおろしているとは感じられなかったからだ。時代に外挿された一過性の思潮に過ぎないと思えたのである。だからこそゼラシネ、根無し草という言葉が浮かんだのだろうと思う。 戦前の、日本シュールレアリスト画家たちの作品に感じた喪失感断線感覚と同じものを堀野正雄の「カメラ・目・×鉄・構成」の写真群にも感じた。それらの作品は現在性を喪失している。歴史的な資料としては価値を、生命力を持っているかもしれないが、目にする人間に問いかけてくる現在力は喪失している。 なぜなのか?

土門拳の写真集「筑豊のこどもたち」の中に少女を撮影した1枚の写真がある。写真集の出版で注目された姉妹の、姉を撮影した写真である。写真集の出版は69年の暮れであるという。そして77年に新装版が出版された。手元にある写真集はそのときのものである。当時、周辺にいた写真関係の人間たちから写真を考える必須文献と紹介されて、手にしたのだった。

リアリズム写真の極致といった呼び方をされていたと記憶している。筑豊地方の荒廃した炭住地帯の生活情景を撮影したものだ。幻の写真集とされていた写真を目にして、十七年という時間の侵食を感じざるをえなかった。高度経済成長期を走りはじめていた日本の「貧しさ」の風景が転換を強いられていたからだ。いったい写真の中の何が時間の風雪に侵食されてしまったのか。問いだけが残された。ただ、写真集の中の1枚の写真が、私の中に、サスペンド状態で残った。少女のバストアップの写真である。写真の中には時代背景を語る情景などは写し込まれていない。ただどこかを見やる俯角する少女の視線が、少女の顔の表情と小さな手の指だけが写るだけだ。なぜその少女を撮影した写真が、その1枚だけが、時代背景を読む手懸りの希薄な写真が、時間の経過に侵食されずに、今も目にする人間になにごとかを問いかけてくる力を持つのか。

撮影した土門拳自身、唐突に、反射的に、少女の顔へレンズを向け、シャッターを切ったのではないか、彼の中で撮影意図が不分明な状態で、というより撮影させられたのではないかと物語風に想定する。他の写真群は、撮影意図が彼の中で言葉として分節化されていたと想像できるからである。そして言葉によって分節化されているそれだけ、時代の経過の中で作品の生命力は喪失され、現在性を風化させられたのではないかと思える。いわば彼の中にある自己必然性ともいえる力のなせるものではないかと思える。

堀野正雄の「カメラ・目・×鉄・構成」の写真群にも、言葉によって分節化された撮影意図が透視される。問題は、作品化しようとするイメージへの欲望を、欲望の必然性、由来を作者がいかに対象化、反省しているかという視点で、写真作品の歴史的な評価が必要ではないかと感じた。