洲之内徹

「第三者」

………何でも知っているQのような種類の人間がいる。映画のことだろうとジャズのことだろうと、絵のことだろうと、何だって彼の知らないことはない。ジャズは昔はJAZZとは書かずJASSと書いたということも知っているし、千九百何十何年にどこから出た画家の写真集にはマチスが鼻の先に裸のモデルを立たせて描いている写真が載っているというようなことも知っている。分らないことがあったら何でも彼に訊けばいい。しかし、私は、Qとは映画のこともジャズのことも話す気がしない。絵のことはなおさらである。この種のカルチャー人間は、私には薄気味が悪い。彼、あるいは彼のような種類の人間は、何でも知っているし知ろうとするが、何にも感じないのではないかという気が私はするのだ。いうなれば、カルチャーがあり過ぎてショックを受けるということがない。彼等を見ていると、カルチャー・ショックを受けることのできる私はまだしも仕合せだという気がしてくる。

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だが、絵を描いているそのときの吉岡の気持を思ってみないではいられないというところが吉岡の絵なのだ、ということも言えるかもしれない。何か切羽詰まった想いのようなものがこの冷たい光の中にありはしないか。それはそれとして、このモノクロームに近い冴え渡ったグレーの色調の何という美しさ。丘を覆う雑然とした市街の処理の何という鮮やかさ。その市街に覆われて眼には見えない丘の傾斜と奥行きを確実に?んでいる遠近法の確かさ。スピード感のある筆捌きの、いささかも渋滞のない緊張したリズム。

ついでにもう一枚、いまちょうど私の手許にある、吉岡の雪の風景を見てもらうことにしよう。一昨年、仙台のある画廊へ秋田の方の人が売りたいと言ってきたのを、その画廊からの報らせで私が買わせてもらったのだが、この雪の風景には、たいていの雪の絵に付きものの、雪に対するロマンチックな思い入れのようなものが全くない。おそらく、秋田へ写生の旅をした吉岡が、どこかの町で泊まり、あくる日、起きてみると雪で、しかたなく旅館の窓からその雪を描いた、そんな気のする風景だ。それでも、吉岡が描くとこんないい絵になる。と同時に、本当にそうだったかどうかしらないが、私にそんなことを思わせるところが実に吉岡の絵なのである。 …………