高橋正也

テオ・アンゲロプロス「旅芸人の記録」

「旅芸人の記録」の出現は、戦後映画は言うに及ばず、世界映画史における画期的な出来事である。トップシーンから観客はスクリーンに釘付となる。訴えかけてくるというよりもただ見て欲しいと語りかけてくるだけに過ぎないのだがそうなのである。これを非訴求性の訴求性と言おう。

また映像がみるものから遠い距離にあるのだ。それは火星どころではない、はるかかなたにあるといっていいだろう。にも拘らず映像は、心理的にきわめて近いのである。この映画は、スクリーンに全神経が集中するのであるが、観客の意識は常に目ざめていて、絶対に見ている自分を忘れることがない。つまり徹底的に突き放された映像なのであるが、きわめて身近にあるのだ。これを非拘束性の拘束性と言おう。

端的にいって「旅芸人の記録」とはこういう映画なのだ。ゴダールの映画は、それが映画における、映像の批評であることに於いて、この作品への道標であったといってよい。

1952年晩秋、ギリシャ南部の海辺の町に旅芸人達がおりたつ。彼等は静かにあるきだす。選挙カーがビラをまいて通りすぎる。するとまことにスムーズに場面は、1939年の晩秋に移行するのだ。また、あとの場面で1952年の旅芸人達が波止場へ散歩に出るシーンで、二股のY字型の右側の道路を選挙カーが通りすぎると、カメラが静かに左へパンする。すると左側の道路は1942年の独軍占領下の場面で独軍の車が通るという具合で、そのあざやかな場面転換は、全く呆気に取られる程すばらしい。

こういう場面は数回出てくるのであるが、すべて一シーン・一カットなのであるから、驚嘆すべき技法である。

さて、いまだかつて見たこともないこのユニークな場面転換の誘因になったものは、登場人物達がただ「あるく」というところからきているのだ。「あるく」ということにおいて、派生的に出てきたものなのである。これが重要なことである。何故なら、「あるく」という「動き」は、時間の誕生を意味するからだ。時間の生起しないような「動き」など真の「動き」とは言えぬ。この「動き」は、映画そのものの動きであり、律動である。この映画の生命であり、力だ。

そしてまたこの映画全篇に流れる高貴な悲劇性は、精神的な力強さの上に成立していることはあきらかだ。燃えたぎるようなものと、きわめて冷徹なものとの同時進行、その緊張関係がこの作品を支えている。映画は描写の手段ではない。映画を撮ることと、状景描写とは全く違うものであるということを、この映画は実によく示している。

『旅芸人の記録』
1975年作品。ギリシャ映画。
カラー・3時間50分。