堀井 彰

尻は語る

他者の視線と出会ったときに、人はどのような身構えをとるのだろうか。またその生理的、反射的ともいえる身構えはその人のすべてを語っているのではないか。

染谷レイコ写真展からうけた感想である。他者の視線と出会ったとき、人はさまざまな姿勢をとる。取らされるといったほうが適切か。その瞬間に取る身構えに、個性が、時代が深く影を落としているのではないか。染谷レイコの写真には、そのような個性的、時代的な身構えの瞬間が鮮明に切り取られている。

敵愾心あらわに向けられたレンズを直視する女性、反射的に目をそむけようとした人、レンズを前に身構えを決められず困惑している人、姿勢を定められず混乱気味の自分を持て余している人、見られることに怯えを抱えている人。他者の視線に捉えられたその瞬間に露出するさまざまな身構え、心の劇が染谷レイコの写真に切り取られていた。羅漢像の中に自分の似姿を探すように、作品に露出しているさまざまな身構えの中に自分の似姿を探しているような錯覚に襲われた。

今年の二月、彼女は他の写真家と共同の作品展にセルフヌードの写真を持って参加していた。「尻」と標題された1枚の写真は、セルフタイマーを使って、自分の尻から裸体をクローズアップしたものだった。視る人間に尻の存在を惹起させる魅力を持った写真に仕上がっていた。写真の中で尻が存在を主張して、作者は自分の尻の振舞いに関与することが不可能であったかのようだ、尻が己の履歴物語を語るにまかせ、そのことが迫力のある写真の出現を可能としたのではないか。作者が語るのではなく、尻の肉が語る。刻の蓄積による、尻に堆積した人生劇場の事跡が語っている。作者がさまざまに作品の構図や現像、焼きの過程において作為を施したならば、尻が持つ存在感は人手に加工され、減衰させられていただろうと思う。己の裸体をセルフタイマーを使って尻の方角から撮影するという制約された窮屈な撮影環境が、撮影において作者の恣意的な演出、作為を抑制した結果であると考えられる。

今回の作品展には十数人の女性が、街中で出会った人間たちをポートレイト撮影したものだが、先の「尻」の写真のように、作者は演出など作為、趣向を極力抑え、反射神経で生理的にカメラのシャッターをきっていたようだ。撮影する人間、被写体となる人間という関数はあるものの、撮影者はただひたすらカメラレンズを向け、その行為に触発され被写体の身構えが露出するその瞬間を待つことが、唯一の作為、趣向であるかのごとくである。被写体にポーズをつけるなどの演出色も希薄である。終始、出現する劇の立会人である立場を逸脱することを禁じているように感じた。ひたすら生理的反応で、被写体に露出してくる身構えに対応しようとしているようであった。

だからこそ作品が視野狭窄に陥らず、開かれ、自由に写真を視ることを許され、写真から各々勝手な物語を紡ぐことが可能となったのではないだろうか。写真家が撮影において趣向を凝らし、自我を押出していたなら、作品の表出力は減衰されていただろうと思う。今回の作品のなかにも、写真家の演出が見透かされるものがあった。作者の意図が透視されたその瞬間、色褪せてしまうことはまぬがれなかった。

作者が作者意識を持ち、趣向を凝らすなどするそれだけ、結果として作品は痩せさらばえるといった逆説構造が表現行為全般にあるような気がしている。

自分の中に堆積されてある美意識を恣意的に選択して、外部の中に探索して形象化するのではなく、外部のなかに感応する対象を発見、形象化することが表現するという行為の本性ではないか。そんなことを中平卓馬の写真論を読みながら、そして染谷レイコの写真を見て感じた。