檜山 東樹

デジタル時代の気まぐれ映画館

映画が光と陰の映像芸術として特段のものだったのは、いつ頃までのことだろう。 半世紀ほど前まで映像は暗闇に輝く銀幕の中にしかなかったが、現代では日常いたるところに映像があふれている。繁華街のビル壁面を覆うマルチディスプレーには、美しく質の高い広告映像が流れているし、カフェに入ればヒーリングサウンドのBGMとともに癒やし系環境シネマが映し出されている。街中で待ち合わせの間、移動中の車の中、携帯電話からはテレビ映像もワンセグ視聴できるし、それどころか、インターネットのYoutubeでは、その気になれば誰もが映画を自作して世界中に公開できてしまう。

興行用エンターテイメント映画だって同様だ。多チャンネルのデジタルテレビには映画専門チャンネルが複数あって、家に居ながら終日映画を観つづけることもできる。もちろん、テレビで観られるのは既に興行の終わった旧作映画で、新作はやはり今でも映画館(最近は「劇場」という)に出かけなければならない。だが、昨今の映画ビジネスは劇場での興行収入だけではなく、DVDやBluelayといったデジタル映像記録媒体での販売やレンタルのロイヤリティー、あるいは、ワンシーン映像やキャラクター、サウンドトラックなどの著作権販売といった多様な商品化を前提としたコンテンツビジネスとして企画されるので、新作映画も2~6カ月後にはレンタルビデオで観ることができるし、テレビでも「上映」される。公開から数ヶ月のタイムラグなど、かつてのロードショー・システムに比べれば短いものだ。

テレビのモニタ・ディスプレイも液晶やプラズマに一変した。液晶の画面は、従来のブラウン管CRTモニターのように残光と残像によるのではなく反射光とバックライトのコントラスト比で表示されるために、全画面で色鮮やか・くっきりハッキリに見え、スクリーン投影される映像の再現性も高い。

テレビモニタで映画なんて・・・と難ずる人もいるかもしれないが、そもそも昨今はシネコンなどの劇場上映でも、アナログの銀塩フィルムをスクリーンに投影するのではなく、映像のデジタルデータをプロジェクターで映しだすデジタルシネマが増えている。

現代の映画製作では、編集や特殊効果など撮影後の加工にコンピュータを用いるために、フィルムカメラで撮影してもそのフィルム映像を一度デジタルデータに変換して編集・加工後再びフィルムに戻すキネコ(キネレコ)という作業工程が不可欠になる。このため、いっそ撮影から上映までデジタル化し、工程と時間・コストを省いてしまおうという方向が潮流となってきているからだ。

そうなってくると、善し悪しや好みは別にして、劇場で観るのもデジタルテレビで観るのも画面の大きさや視聴環境が異なるだけで、映像作品の質そのものは違わないことになる。むしろ、好きな時にじっくり集中して観るには家のテレビモニターの前の方が具合がいいとも言える。

そんなわけで週に2~3本は映画を観ている。もちろん、すべてがデジタルテレビでというわけではなく、劇場公開の新作映画も含めてのことだ。そんな今日的映画逍遙の中から個人的に特段の映像芸術と思う作品を、洲之内徹の眼力には到底及ばないが「気まぐれ美術館」ならぬ「気まぐれ映画館」と洒落込んで、取り上げてみようと思う。

これぞ映画!-『瞳の奥の秘密』

第82回アカデミーの外国語映画賞を受賞した『瞳の奥の秘密』は、2009年製作のアルゼンチン映画だから、さほどの旧作ではない。一般に南米産映画は日本では馴染みが薄い。だから、アカデミー受賞がなければマイナー映画のひとつとして、ミニシアター系で上映されたかどうかというところだったろう。しかし、アカデミー受賞作品となると日本では三つ葉葵紋の印籠である。初めは昨年の8月、単館上映での公開だったが連日満席、その後全国の劇場で公開上映された。その折り、今はなき恵比寿ガーデンシネマで観た。そして、先頃DVDでもう一度視た。

やはり傑作だ。映画として優れて出来映えの良い作品であり、これぞ映画!と言っても過言ではないくらいに、映画の映画たる魅力、要素、想像力がたっぷり詰まっている。

そういう映画が、ハリウッドでもフランスでもなくアルゼンチンから出てきた。ただし、監督のファン・ホセ・カンパネラはブエノスアイレス生まれのアルゼンチーナながら、アメリカの人気テレビドラマシリーズ『LOW & ORDER』のスピンオフ・シリーズや『ドクター・ハウス』などもディレクションしているという手練れで、その点では世界一流のエンターテイメント作品作りのツボは心得ているのだろう。本国アルゼンチンやスペインでの映画賞では常連の実力派とのことだ。

『瞳の奥の秘密』は、そのカンパネラ監督が脚本・編集と三役を手がけている。いわば、映画クリエイトの基本要件を一人でこなしているのだから、これは映画作家としてのファン・ホセ・カンパネラの世界と言ってもさしつかえないだろう。

ストーリーのメインストリームは、1974年のブエノスアイレスで起きた凄惨な殺人事件。新婚の美しい女性教師が自宅で暴行され殺害される。連邦刑事裁判所の書記官ベンハミン(リカルド・ダリン)は、犯人の手がかりも証拠となる遺留品も目撃証言もないこの事件の捜査を、部下で友人のパブロ(ギレルモ・フランチェラ)とともに開始する。彼らを指揮する上司は、着任したばかりの若い女性判事補・イレーネ(ソレダ・ビジャメル)。美しく聡明なイレーネにベンハミンは密かな想いを抱くが、アメリカの名門大学出のエリート司法官僚である彼女と高卒ノンキャリアの書記官である自分との落差にたじろぎ、気持ちを打ち明けることはできない・・・。と、ここまで紹介すると、よくありがちな恋愛ミステリーかと思えるが、そんな単純なエンターテイメント・ストーリーではない。

一年後の1975年、ベンハミンとパブロは奇跡的に容疑者・ゴメス(ハビエル・ゴディーノ)を見つけ出し、捕らえる。正攻法の尋問になかなか尻尾を出さない容疑者だったが、イレーネの機転の利いた挑発に乗ってしまい、遂に犯行を自供する。だが・・・。


異国・異制度・異文化と出会う映画の愉しみ

アルゼンチンの司法制度・警察制度がよく分からないので今ひとつ腑に落ちない点もあるが、刑事裁判所の書記官というのは刑事事件の捜査・逮捕権を持った司法職員のようで、判事補という職分も日本の司法制度のそれと違い、検事の下で刑事事件の立件を行う、言わば捜査検事補のようなことであるらしい。

こういうことを推測したり想像しながら観るのも、馴染みの少ない異国の映画に接する愉しみであり、おもしろさだ。ただ、映画の中で異国を旅するのに、物語の背景にあるその国の歴史を押さえておくことは、その映画を深く観ることができるだけでなく、映像的メタファーの発見や映画的想像力を高めることにもなる。

『瞳の奥の秘密』で発端となる事件の時代に設定されている1974~75年というのは、アルゼンチンにとって歴史的メルクマールとなった時である。

第二次大戦後のアルゼンチンで、1960年代の軍事政権期を除いて長く大統領に座にあって、絶大な権力を振るったファン・ベロンがこの年(1974年)に亡くなった。妻で副大統領だったイザベル・ベロンが後継したが、拙劣な施政で政情・経済の不安を招き、治安は悪化の一途を辿る。1975年に入ると、イザベルは政府批判を強める与党内左派・労働組合の「絶滅」を軍と警察に命じる。これが、いわゆる「汚い戦争」の始まりである。

その翌年の1976年、ビデラ将軍による軍事クーデターが起こされ、イザベル・ペロンは大統領を解任される。しかし、以後17年間の軍事独裁政権下でも、左派絶滅を狙った「汚い戦争」は継続され、より苛烈となる。

フォークランド(マルビーナス)戦争の敗北で軍事独裁政権は終わりを迎えるが、ペロン時代からの20年間に、一説では3万人とも言われるアルゼンチン国民が「左派絶滅命令-汚い戦争」により拉致され、殺害され、今なお行方不明となっている。

もちろん、このジェノサイドは当時の政権だけでなく、冷戦下、南米への共産主義勢力の浸透を阻もうとしたアメリカ政府が深く関わっていたことは言うまでもない。だが、犠牲となったすべての人々が政権に抗した左派・共産主義者であったはずはなく、権力・権限を得た者の私欲と私怨の生け贄になった人も多いことは言うまでもない。その悲惨な歴史の端緒を開いたのがイザベル・ペロンであり、その幕開けの時期が1974~75年なのだ。

つまり、アルゼンチンとアルゼンチーナにとってもっとも不穏で不幸な時代の幕が開いた時期、それが『瞳の奥の秘密』の登場人物たちが生き、翻弄され、その後の現在までを拘泥される世界である。「左派絶滅命令-汚い戦争」は重要なエピソードとして、映画の中でも描かれる。だからこの映画は、単純なミステリーやサスペンス映画ではないし、もちろん恋愛映画でもない。かと言って、歴史物語でも追憶と再生の物語でもなく、あえて言えば、それらの要素すべてをエピソードとして映画的に構造化している上質なエンターテイメント映画なのだ。

映画だからこそ描ける物語

オープニングは2009年の現代。刑事裁判所書記官の職も今は定年退官し、家族も打ち込める仕事もなく孤独な日々を過ごすベンハミンが、25年前のあの事件を小説に書こうと一念発起し、ブエノスアイレスのかつての職場を訪ねるところから始まる。そこには、今は結婚して二児の母となり、検事に昇進もしたイレーネが待っていた・・・。

現在と過去、そして過去と現在でそれぞれに進行する時間、さらにそれらの時間の中で、主要な登場人物それぞれの思いと、その思いがすれ合い、あるいはすれ違って記憶される関係の時間が重層的に入り組み物語が展開する。観る者に油断を許さない複雑なフラッシュバックの巧さ。まさに、映画によってこそもっとも描き得る物語がここにある。

いったん事件は解決したかにみえたのが、不可解にも犯人は釈放され、一転、物語は不穏な展開をたどっていく。そこにはイザベル・ペロンの「左派絶滅命令」が強く関係していて、犯人・ゴメスは警察のイヌとして「左派絶滅」に協力することを条件に無罪放免となったのだった。まさに「虎を野に放つ」の謂。挫折と無力感を抱えてベンハミンとイレーネがエレベータに乗っていると、サイレンサー付の拳銃を手にしたゴメスが乗り込んでくるシーンは、重苦しく緊迫した映像になっていて、無言で互いに視線も合わせることのない俳優の演技は、短い時間だが、暗い時代が始まる無気味な空気感を見事に表現している。

節目となる場面や見せ場のシーンで多用される俯瞰からのパンと長回しのカメラワークは印象的で、イメージを刺激し、その場に立ち合っているような映像的想像力を与える。 連邦刑事裁判所の吹き抜け回廊からの俯瞰。そして1階ロビーに入ってくるベンハミンへのズーム。回廊で話しをするベンハミンとパブロあるいはイレーネを、回廊の向かい側や上階からパンする撮り方は、外連みたっぷりでおもしろく、小気味よい。

圧巻はベンハミンとパブロが容疑者を見つけ、チェイスの末に捕まえるシーン。熱狂的歓声に満ちたゲーム中のサッカースタジアムの俯瞰から入り、埋め尽くされた観客の中に容疑者・ゴメスを発見し追いつめる。これを長回しで撮っていくのだ。現実には、ほとんど不可能であり得ないような話で、いかにも映画的ご都合主義のようなシーンだが、それ驚異的な長回しでまともに撮ることによって、リアリティへの疑義など差し挟ませない臨場感と緊張感あふれたエピソードに映画化してしまう力業だ。

いっぽう、趣のまったく異なる別れのシーンでも、基本的に俯瞰、パン、そして長回しという撮影のフォームは通底される。ややズーム気味の俯瞰から入る駅のホーム。テロの危険を避け、地方へ転勤していくベンハミン。見送るイレーネ。列車の窓越しに見つめ合う二人をパンするカメラ。それぞれの瞳の奥に秘めた相手への想い。だが、二人ともその想いを吐露することができないまま列車が動き出す。離れていく列車の窓を追いかけるイレーネ。短いものの、車内からの窓越しとホームから2台のカメラが長回しでとらえる。それが二人を覆うサスペンスと、一線を越えられない二人のやるせなさを強く感じさせる映像表現になっている。


ザ・シネマ・イン・タンゴ

タイトルの「瞳の奥の秘密」とは、相手への想いを秘めて見つめ合うベンハミンとイレーネの関係だけではない。登場人物それぞれの瞳の奥に隠れた秘密であり、けっして口に出すことなく心に秘めている想いや情熱であり、それがもたらす人生の変転もあるということだろう。

ならばそれは、男と女が見つめ合い、哀愁に満ちたバンドネオンの響きに乗せて、きわどいステップを踏みながら愛と人生の変転模様を踊るアルゼンチン・タンゴそのものではないか。

そう、この映画は、まさにタンゴであり、「ザ・シネマ・イン・タンゴ」とも言える。だから、資本がスペインであろうが、監督がアメリカ流であろうが、『瞳の奥の秘密』の世界は、まぎれもなくアルゼンチン映画であるのだ。

さて、まったく趣は異なるが、やはり「ザ・シネマ・イン・タンゴ」と言えるアルゼンチン映画の佳作をもうひとつ。 2001年製作の『オリンダのリストランテ』は、ブエノスアイレスの片隅で小さなレストランを舞台に、中年の女主人オリンダとドイツから恋人を追ってやってきた青年ピーターが出会い交流するなかで、人生の意味を見つめ直すヒューマンドラマ。

事件もまったく起きないし、犯罪も解き明かされる謎もまったく見あたらない物語。女性監督バウラ・エルナンデスのメガフォンにも、特撮や手の込んだ技法はなく、ただただ、登場人物たちを優しい眼差しで写し取っていくだけだ。リストランテに出入りするアルゼンチーナは皆明るくユーモラスな善人ばかり。けっして豊かな階層ではないではない彼らブエノスアイレス市民の、淡々として時に賑やかな日常が描かれ、それがほのぼのとしたスパイスになって物語の展開にアクセントを添える。

アルゼンチン映画のアイデンティティを観る

よほどの映画好きやマイナーを好むへそ曲がりは別だが、映画興行的には『オリンダのリストランテ』は、日本では当たりにくい地味な作品である。

しかし、この映画はテーマの根底のところで、まぎれもなくアルゼンチン映画の、牽いては南米のアイデンティティにつながるフレームを持っている。それは「移民」と「郷土愛」というフレームだ。

他の南米諸国同様、アルゼンチンは移民の国だ。19世紀、ブエノスアイレスの港はひじょうに栄え、アフリカやスペイン、ポルトガル、イタリアなどのラテン・ヨーロッパから多くの出稼ぎ移民が集まった。アルゼンチン・タンゴも、そうした移民たちの中でも下層の人たちが屯する裏町の酒場から生まれた。

アフロやグラナダ、あるいはファドやカンツォーネなどさえ混在したアルゼンチン・タンゴのリズムとメロディは、郷土を想う移民たちの心情から即興的に発生したフォルクローレであり、日々の生活で鬱積した情感と欲望をストレートなステップに刻んで発散したものだった。世界的なダンスとして洗練された今でも、アルゼンチン・タンゴが感じさせるある種の猥雑さや土着性は、その出自における移民の魂が宿っているからだと思われる。

映画『オリンダのリストランテ』は、その邦題がイメージさせる内容と異なり、実は移民の物語である。オリンダはイタリアからの移民であり、旅人としてやってくるピーターもドイツには帰らない。オリンダの料理は明らかにイタリア料理で、店に出入りする客たちも、たぶんは移民なのだ。

ある日、オリンダは新聞を見て、イタリアで彼女の故郷の町のある地域が大きな地震に襲われたことを知って動揺する。女手ひとつでレストランを切り盛りすることに疲れ、先の人生にも希望を見出せなくなっていた彼女は、そのニュースに接して、抑え難い郷土愛と望郷の想いに包まれる。すぐにも店を処分して故郷の町へ帰ろうと決意するオリンダだったが、ピーターをはじめ周囲の人たちは、何とか思いとどまらせようとする・・・。

『瞳の奥の秘密』のような激しく濃厚なタンゴステップではないが、この佳作もまた、「移民」と「郷土愛」というファクターを物語の基底に据えている点で、まぎれもない正統的なアルゼンチン映画なのだ。

原題『HERENCIA』(遺産相続の意)に対して、邦題は、公開当時に人気のあった料理・レストラン映画(『幸せのレシピ』、『レミーのおいしいレストラン』など)を意識した興行的な詐称の気がしないでもない。しかし、この映画では、幸せになるようなレシピはもちろん、湯気の立った美味しそうな料理も登場しない。

役者の力で魅せる映画-『RED』

「気まぐれ映画館」に、ハリウッド新作映画を一つ入れておきたい。本年早春に日本公開のされた『RED』。
原作はアメリカのグラフィックノベル。つまり、大人向けの長編コミックス。つまり、マンガである。

日本でもコミックが原作の映画(アニメーションではない実写もの)は多い。日本は「マンガ大国」と言われるように、マンガ及びコミックスという形式の表現文化は歴史も古く、世界最高水準にある。読者も男女・世代を越えて広く、市場での評価・選別も厳しい。このため、コマ割りを含めた描画表現の巧さや芸術性はもちろん、ストーリーテーリングにも小説などと拮抗するほどのテーマや質の高い文芸性を備えた作品が多くリリースされていて、映画やテレビドラマの原作にもなりやすい。

だが、アメリカではもともとコミックスの文芸的地位が低く、読者も多くはない。成人してコミックを読んでいたら知的レベルを疑われるような風潮が、今でもある。このため作品も複雑なストーリーや文芸的テーマのものは稀で、単純・荒唐無稽が定番だった。

グラフィックノベルは、そうした伝統的アメリカンコミックスの形式を踏まえながら、よりシリアスなストーリーで、文学性もある大人向け長編コミックスとして、1970年代の後半に登場した。その背景には多分に日本のコミックスやテレビ・アニメーションの影響があったことは否めない。アーチストを中心にコアな読者が増えているようで、この『RED』の監督ロベルト・シュヴェンケもその一人だとか。

『RED』というタイトルは「赤」の意ではなく、「Retired Extremely Dangerous(引退した超危険人物)」の略。と聞けば、観る前からおよその想像がつくだろう。現在は現役を引退して、悠々自適かどうかはさておき、穏やかな年金生活を送る元CIA工作員・スパイ・スナイパーたちが、自分たちを抹殺しようとする権力の陰謀に立ち向かうという、シリアスと言えばシリアスなサスペンス、大人向けハードボイルドと言えば、そう言えなくもない、しかし、基本的にはいたって伝統的アメリカンコミックの「ありえない!」の世界。荒唐無稽ストーリーのアクション映画。いわゆる「ポップコーン・シネマ」だ。

豪華演技陣の競演を愉しむ映画

グラフィックノベルが原作の映画には、2009年日本公開の『ホワイトアウト』という作品があった。このとき脚本を書いているのがジョンとエリックのホーバー兄弟で、この『RED』も彼ら二人が書いている。

ハリウッドの映画製作で兄弟といえば、カンヌやアカデミー常連のジョエル・コーエン、イーサン・コーエンの兄弟監督・プロデューサーが著名だが、監督と脚本家というポジションの違いはあるものの、ホーバー兄弟の力量はコーエン兄弟のそれには遠く、まだまだである。『ホワイトアウト』は、はっきり言っておもしろくなかったし、原作のイメージに拘りすぎていて、映画的想像力のある作品ではなかった。

今回の『RED』でも、ホーバー兄弟の脚本力はさほど進化しているとは思えない。原作のイメージを大事にしている点には概ね好感が持たれているようだが、その上で原作を超えるような、ずば抜けておもしろいストーリーが仕組まれているわけでもないし、画期的なアクションシーンもあるわけでもない。

それでもこの映画が、リズムの良いチャプター展開と肩の力が抜けたアクションコメディ的ストーリーの映画に仕上がっているのは、ひとえに、俳優の力である。

何しろ、キャスティングがすごい。主役以下4人のREDに、ブルース・ウィリス、モーガン・フリーマン、ジョン・マルコビッチ、そしてヘレン・ミレルと、まさにExtremelyの、単独でも客を呼べる大物俳優たちの揃い踏みなのだ。

彼ら以外にも、敵役には『ジョーズ』のリチャード・ドレイファスとシンガー・ソング・ライターでもあるレベッカ・ビジョン。RED暗殺作戦に巻き込まれる年金局の職員に、トニー賞、エミー賞、ゴールデン・グラブ賞受賞のメアリー・ルイーズ・パーカー、REDを追う現役の若いCIA工作員に『ロード・オブ・ザ・リング』のエオメル役でスターダム入りしたカール・アーバン、REDを側面支援する元KGBのスパイに、初代ハンニバル・レクター(『羊たちの沈黙』のアンソニー・ホプキンスは二代目のレクター役である。)のブラアン・コックスと、演技派・実力派・個性派が加わる。さらに、極めつけは、CIAの裏資料保管庫の番人に『ワイルドバンチ』でウィリアム・ホールデンの相棒を演じた、当年94歳の名脇役アーネスト・ボーグナインまで出演している。

そうなのだ。この映画は、実力のある役者たちの芝居が、たっぷり愉しめる一品なのだ。

現代のハリウッドのアクション映画だから、当然CGも特殊エフェクトも登場する。しかし、それらはどれも大したことはない。俳優たちのギャラが大きくて、アクションシーンや特撮に予算が回せなかったからだという批評もある。

だが、そういうスペクタクルな映像がなくても、また、いかに荒唐無稽なストーリーでも、実力のある役者たちの存在感と演技力が満開に発揮し、何よりも役者自身が役柄との人物を愉しんで演じていれば、ゴールド保証付きでおもしろい映画は撮れるし、観る者を喜ばせ幸せにすることができるのだ。それを、この映画は実証している。

役者あって不滅のアメリカ映画

そもそも、脚本もそれぞれの役者が演じるキャラクターを、明らかにアテ書きしていると思われるところが多い。だから、観る側は期待通り、いや期待以上にその役者の演技が愉しめるし、それが映画をおもしろくしていくのだ。

年金生活暮らしのジイさんで、唯一の楽しみが年金局の女性担当者と電話で話すことというブルース・ウィリスは、往年のジョン・マクレーン刑事のように、初めからメチャクチャに強いし、肝臓癌を抱えながら、老人養護施設で若い介護スタッフの尻を眺めてご機嫌なモーガン・フリーマンも、やっぱり、トボケているがしたたかなジジイである。そして、ジョン・マルコヴィッチとヘレン・ミレン。この二人のキャラクターと芝居は最高だ。

役づくりの徹底的な完璧さでは、ジョン・マルコヴィッチは当代最高の役者だと思う。とりわけ、偏執性の強い人物を演じさせたら、彼の右に出る俳優はいないのではないか。この映画でも、まさしくそれだ。RED4人の中ではもっともアブナイ、だから観ている方にはもっともおもしろい。CIA在職中に組織内治験で11年間LSD漬けにされ、国も組織も人も一切信用しない、どう見てもイカレている被害妄想のジイさん。しかし、データリサーチと武器・火器の知識・取り扱いの腕は抜群というヘンな役を、ここでも見事なマルコヴィッチ流で演じきっている。彼の芝居は、掛け値無しに痛快で、大いに笑わされる。リベラル派が多いハリウッドでは珍しい右翼的発言の多い人物だが、大好きな役者の一人だ。

一方、ヘレン・ミレンは現世のエリザベス女王を演じた『クイーン』で、第79回アカデミー主演女優賞を受賞したことで知られる。また、『終着駅トルストイ最後の旅』の悪妻と言われたトルストイの妻・ソフィアや、『テンペスト』のプロスペラ役など、貴婦人的な役のイメージが定着している彼女だが、ここでは、元MI6(英国情報部)の超一級スナイパーのバアさんとなって、マシンガンをブッ放している。彼女はCIAではなかったのだから、狙われている対象ではないのだが、昔のスパイ仲間のよしみで自ら志願し「ワクワクするわ」とか言っているのだから、これまた、超危険なバアさんなのである。だが、そういう滅多にない役を、彼女はどうみても楽しんで演じている。そういう芝居に、つい観る方もニンマリしてしまう。

だが、彼女がメアリー・パーカー演じるブルース・ウィリスの恋人に言うセリフ、
「彼を悲しませるようなことがあったら、私はあなたを殺すわよ。そして、森に埋めてやる。」
これは凄みがある。やっぱり、ヘレン・ミレンは女王様だ。

ところで、映画に限らず、アメリカの俳優たちは多くが学生時代からその道を志し、大学で演劇・演技を学び、舞台や演技スタジオで修練を重ねて、ハリウッドやブロードウェイへのチャンスが来るのを待つ。もちろんそのチャンスと幸運を得られない者も多くいるわけだが、そういうシステムや環境の中からメジャーとなる俳優たちの力量の高さがアメリカ映画の底力だと思う。

キャリアと実力のある者しか生き残れないアメリカ社会の反映であるが、それがアメリカ映画を不滅にしている。昨今のモデル上がりの日本の俳優たちでは、永久に及ぶわけがない。そういう俳優たちで、テレビの延長のような映画を作っている日本映画も、また然り。

役者の力で観せる映画を堪能しながら、そんなことを思った。
初回で長めとなったが、「気まぐれ映画館」は今回これで終映。