堀井 彰

長谷川利行の絵は破格である

無頼の画家と呼ばれている長谷川利行の絵をまとめてみる機会があった。

これまで長谷川利行の絵は印刷物でしか目にしたことがなく、一つは「酒祭り・花島喜世子」でもう一つは「岸田国士」にすぎない。

今回、見ることができたのは全部で九点。「カフェ・パウリスタ」、「鉄工場の裏」、「ガイコツと瓶のある静物」、「タンク街道」、「ポートレエ(前田夕暮像)」、「岸田国士像」、「新宿風景」、「ノアノアの女」、「お化け煙突」である。

色彩が持つ無垢さが目に眩しかった。

長谷川利行の作品を目にして、作品に生命力の横溢を、清清しい生命の息吹を感じた。とくに彼の使用する原色の黄色や青、黒などの色彩に目を奪われる。透明度の深い作品であった。色彩と筆触とが、画面に生命力を胚胎させ、絵を見ていると身体の細胞一つ一つから音をたてて日々の生活の垢が洗浄されるのを体感できる。

都会の簡易宿泊所や知人の下宿部屋を渡り歩き、路上生活者のような極貧生活のなかで、傑作といわれる作品群を描いたといった物語片から綴られた凄惨な伝説とは裏腹に、長谷川利行の絵画は健康的で、生命力に充ちている。悲惨さや暗さは微塵も感じさせない。見ていると気持ちがシャッフルされ、清潔に洗濯されたワイシャツを身につけているような充足感がある。

巷間、伝説化している作家を囲繞する極貧ともいえる悲惨な制作、生活環境のなかで、いかに生命力にあふれた作品群を制作できたか、大きな謎である。

韜晦からはじまり、憐憫、嫌悪といった屈折した負の自己感情を作品に自己投影をすることを彼の絵は拒絶している。日本人画家としては希有な存在ではないだろうか。それが自己放棄なのか、自己崩壊なのか、忖度すらできない。

日本の近代文学や絵画ではその創作の底流に挫折、屈折という感情を起爆剤としてきたのではないか。東京という都会と出会って抱えこまざるをえない挫折、屈折といった感情を排泄するように表現してきたのではないだろうか。

しかし長谷川利行の作品には負の自己感情が気配すらも表出されていない。彼の色彩には自己感情の濁りを感じさせない無垢さがある。対象と対峙して対象の発露を直截に無垢なまま感受性に受けとめている。

長谷川利行を主題とした『「絵花火」は消えて行くー長谷川利行の視覚都市・東京の色』のなかで尾崎眞人は「利行の作品には『自我』がみられない。だから晩年の利行の絵は、迷いや自己憐憫さえも捨てられた表現となる」と指摘している。

自我による意識的な視座は容易に見る人から制作意図が透かされ、察知される。そして自我が背負わざるをえないイデオロギッシュな視座が時代との間合いが小さいほど、それだけ作品の訴求力も色褪せ、たちまち褪色してしまう。自我が強烈であればそれだけ視野狭窄を生じてくるからだ。長谷川利行の作品は没後七十年たった今も、強烈な生命力を放射しているのは、自我力が弱いからだ。結果として、作品における無意識の領野が広いからである。

詩人の中原中也は、死の病床で、強すぎた近代的自我を反省する言葉を日記にしたためていたという。長谷川利行には自我の表出に拘泥する志向は希薄だったようだ。

赤、黄色、黒といった単色で画面を構成した「工場の裏」の輝くばかりの透明感が好きだ。汚泥、濁り、屈折などといった負の自己感情に自縄自縛された表現は皆無である。
今回、目にした作品たちは後期に属するものである。そのなかで、「新宿風景」と「ノアノアの女」の二作品は破格と呼ぶに相応しいと思う。

時とともに、彼の絵画から対象の形態は輪郭を喪失していく。作品「新宿風景」では、街の形態は輪郭を喪失し、人の姿も黒で線描されるだけで人間の輪郭はない。街はその形態ではなく、立ち昇る人々の笑声、跫、体臭などといった生活の喧騒が彩色で描写されるだけだ。キャンバスには生きている街が描出されている。

傑作「ノアノアの女」では、対象の女の顔、からだ、背景を構成する棚などは輪郭をほとんど喪失しているにもかかわらず、色彩と筆触の奏でる律動感でかろうじて対象の形態を視覚化させる。まさしく破格な表現力である。長谷川利行は、色彩でものの形態の輪郭を描くのではなく、暗喩として色彩を使用しているともいえる。そのところが傑出した才能であり、彼が破格な画家であった証拠である。 作品「ノアノアの女」の前に立ったとき、女の姿そして背景の棚などは単色の線描でかろうじてその形態を表出しているだけだ。楷書から行書そして草書へと崩す、書の崩しの技法を見るようだった。対象を色彩だけで、いかにくずしながらその存在をキャンバスに定着させるか、作品「ノアノアの女」には、長谷川利行の到達した破格な境地が表出されていると思う。格を失わずに破の極限へまで色彩だけで対象の形態を崩す。

都会の底辺で窮迫した生活のはてに行旅死亡人として49年の人生を終えた破天荒な生活振りが、巷間、物語として人口に膾炙している作家の絵とは思えない。絵には荒廃、悲惨、悔悟といった自己憐憫の気配はまったくない。天真爛漫に色彩による無垢な生命の発露が表出され、救いを感じる。

東京上野不忍池弁天島に「利行碑」が建立され、彼の歌二首が碑に刻まれてある。

「人知れず朽ちも果つべき身一つの いまがいとほし涙拭わず」
「己が身の影もとどめず 水すまし 河の流れを光りてすべる」