ディシー沢板

オシムの目

6月の毎日は、頭の芯がボォーッと集中を欠く不眠症候群と、それでもなお45分×2だけは貯めていたエネルギーを一気に発散する心地よい時間の繰り返しであった。
日本代表は躍進し、一定の評価を得た。「世界を驚かせる」までは行かないにしても、日本人には大きな勇気を与えてくれた。

日本代表を思う時、前監督のオシム氏が言っていた言葉がいつも気になる。
「日本を日本化する」彼は何をやろうとしたのだろう。

オシム氏はこう言った。「日本人の面白さに感じ入った、ということ。日本人にアンビバレント(二律背反)なポリバレント性を感じた。民主主義を原則としながら天皇制があるみたいな、皆を尊重するやり方を・・・」

ポリバレントとは多様性。サッカーで言えば複数のポジションをこなす多才性であり、切り替えの速さを言う。

日本の風土に立ったオシム氏は日本人の持つバランス感覚、寛容性、あ・うんとも言える融通性を感じ、時として欧米的になりがちな日本人のものの考え方に対し、日本人の持つ豊かな多様性を生かしたチームを作ろうとしたのではないだろうか。

多様性とは雑多であり、その雑多な存在を互いに認め合うことにある。そこから生まれる意外性が「世界を驚かす」こととなると考えていたのかもしれない。
組み立てもできるFW、ダイビングヘッドが得意なDF、センターバックのできるGK、(今大会ではゴール前でGKになったFWがウルグアイにいましたが)そうした多面的な能力を判断よく使い分け、互いが理解し合う。日本の日本化はこうしたチームコンセプトなのだろう。

村上春樹の「海辺のカフカ」にこんな一節があった。(ナカタさんと同行していた星野さんとカーネル・サンダースとの会話である。)

「神様ってなんだ?」
そう言われて、青年は考え込んでしまった。
「神様ってどんな顔をして、どんなことをしているんだ?」とカーネル・サンダースはなおも追求した。
「俺はそういうこと、よく知らねえけどさ。でも神様は神様だよ。いたるところに神様はいて、俺たちがやることを見ていて、良いか悪いか判断するんだ」
「それじゃまるでサッカーの審判員じゃないか」
「そういう風に言えるかもしれない」

私の実家には水神様(すいじんさま)がある。毎年新年には、しめ縄を飾りお参りする。日本は古来、水の神、森の神、山の神、台所の神、玄関の神・・・至る所にいる八百万の神がいた。それは日本人が心のどこそこに持っているのではないかと思う。私(小心者のせいでもあるが)は自分が何か悪い事をすると“神”或いは“天”から罰を受けるのではないかと思ってしまうところがある。こんな気持ちが時として行動を規制したりもする。応援するチームが負けると、自分のおこないを反省してみたり、次からもっとしっかり生きようなどと思うこともある(チームとは全く関係はないのだが)。規制するとまではいかないにしても、一つの判断材料として心の中のサッカーの審判員のごとき神様に従ってしまっている。

寛容さ=アンビバレントに見えるものを無理なく同居させる懐の深さ、雑多性(除夜の鐘をついた後に、すぐに初詣に行く敷居の低さ)と、心の中に善悪を判断するサッカーの審判員を持つ日本人は、独特の「世界を驚かせる」様なチームが作れるかもしれない。

しかし、審判も最近は神様ではなくなってきた。前は「海辺のカフカ」でカーネル・サンダースが言うようにサッカーの審判員が神の目として、善し悪しを決めることで成り立っていたが、何やら神の目は映像という機械の目になり、審判は人として面白くもない無機体になってしまいつつある。マラドーナの手は神の手として畏敬を与えられたのに、アンリの手は人の手になって批判の的となってしまったように。

ともあれ、4年後ブラジルでは日本化された日本代表が、神様のごとき審判員に裁かれ、世界をあっと驚かせることを期待する。