堀井 彰

サッカー日本代表監督岡田武史の深謀遠慮には脱帽だ

サッカー日本代表監督岡田武史の言葉で、記憶に刻まれているものがある。正確な時期は思い出せないが、十二年前のフランス大会か八年前の日韓大会のあとのことであると思う。日本人選手の課題として、パスとトラップ能力の不足を指摘し、基礎的な練習の必要をといった主旨の発言だった。新聞紙上で読んで、彼の指摘に大いに首肯できたことを覚えている。試合をテレビ観戦しながら、日本人選手のパスのスピード、正確さなどに不満を覚えていたからだ。そして足や胸でのトラップにおいても、トラップしたボールが足元に落ちず、ワンタッチでのキック、パスもなく、ときには簡単に相手にトラップしたボールを奪取されてしまう場面を何度となく目にしていた。そしてこのパスとトラップとの関係はコインの表裏であることが素人目にも理解できたから、岡田武史の指摘は正鵠をいたものと映った。トラップ能力に劣るから速く強いパスを出せない。一種の悪循環である。そして日本選手たちのパスは横パス、バックパスが多いという特徴も感じた。その結果、攻守の切りかえといったゲーム展開が遅くなる。

それ以来、国際試合などでパスのスピード、トラップなどに注意しながらテレビ観戦するが、意識的に課題として改善されているとは思えなかった。くわえて日本人選手のトラップについて、日本代表監督をつとめたジーコが、新聞紙上で、トラップするときには息を抜くとボールが足元に落ちる、と具体的な技術を述べていたことも記憶に残っている。日本人選手のトラップ能力が彼にも気にかかっていたのではないだろうか。しかしながらその後、岡田武史やジーコなどの指摘が生かされている気配は感じられなかった。足首にボールが吸いつくようなトラップや、胸から足元に垂直に落ちる胸でのトラップを日本人選手の業として目にする機会がほとんどなかったからだ。

ワールドサッカー南アフリカ大会にむけて、岡田武史が記憶に刻まれるような試みを行なっていたことを知った。

国際試合をテレビ観戦していて、かねがね日本人選手の走法を中心に、身体操法に違和感を抱いていた。日本人選手たちの走りがアフリカ系、欧州、中南米の選手たちと比較して素人の走りに映っていたからだ。その顕著な場面は、アフリカ系選手たちの身体の切りかえしに振り切られてシュートを許してしまう場面。それはアフリカ系選手たちは腰から始動するが、日本人選手たちは上体から始動しているからだ。その結果、瞬発力において、身体の転回、転体において、身体能力の優劣が露出してしまう。守りから攻撃への転換において、日本人選手たちはそのスタートダッシュにおいて上体を前傾させる。そのためドリブルからシュートへ移行するとき、日本人選手は歩幅を調節してから蹴り込む。欧州、中米の選手たちのようにドリブルの延長上でキックすることが出来ない。結果としてもたついている間にシュートコースを塞がれてしまう。また歩幅を整えてから大きく踏み込んで蹴るから、結果としてテレホンパンチならぬテレホンキックとなり、キーパーなどにとっては捕球のタイミングが計りやすくなってしまう。

岡田武史にも、日本人選手の走法は課題として映っていたようだ。日本代表選手に、スタートダッシュの方法の講義を受けさせたことが新聞の小さなコラムにあった。四十五分の講義を受け持ったのは福島大学陸上部川本和久監督である。

「ボール争いに勝つには、出だしの身のこなしが勝負。選手たちはスタートで、重心をうまく前に動かせていなかった。そこで重心の移動方法、ひざの使い方を伝えました。
長友選手は最初からできていて、レポートに『文句なし』と書きました。講義後、岡崎選手は意識しているのを感じます。重心の移動がスムーズになった。中村憲選手も動きが変わりました。
海外勢にはない日本の特徴として、ほんのちょっとの差でいいので、スタートに勝って、ボールを取ってほしい。それが日本サッカーの進歩にもつながると思います」

走ることが主要なゲーム要素である競技にたずさわる選手たちに、走ることの基本をあらためて学ぶ場を設定した大胆さが驚きである。走りのエキスパートに、あらためて走法を学ばせるなど、選手の自尊心にさわる問題ではないか。だがサッカー代表選手たちに走りかたの基本の基本を受講させることをあえて行なった背景には、「便利、快適、安全になり、今の日本社会は人間が家畜化している。そんな中でスポーツだからできることがあるはず」 といった時代における身体のおかれている現状への深い認識が岡田武史にあったとおもう。

かつて、日本人は体格的には劣っていても、体力においては欧米人に比較して優れていたと言われていた。文明開化時期に日本へ赴任してきた欧米の学者たちは、日本人の驚異的な体力に驚きの目を向けていたことが、彼らの日記などに残されている。しかしながら生活環境の変化、そして戦後社会における伝統的な食生活の放棄と植民地的な蛋白質、カルシウムといった栄養素至上主義の食生活の普及により、体力までが劣った民族と成り果てている。そのような状況においては、自覚的に、意識的に走るといった基本的な身体操法を学習する必要が必須となっていることを岡田武史は認識していた結果であると思う。現代社会では、歩くこと、走ること、物を持ったりする身体作業は生活場には必要なく、だからこそ数学や国語などを学習するように歩く、走る、蹴るといった基本的な身体操法を学習せざるを得ないと岡田武史は認識しているのではないか。もはや生活環境の中で自然発生的に身体能力が作られる環境には、日本の現状はない。意識的に、自覚的に歩くこと、立つことなどを学習せざるをえなくなってしまった。

南アフリカ大会の試合において、本田圭祐の走法、そしてキックにおける身体操法、また長友佑都の走りなどには、岡田武史の時代認識が十分に表現されていたと思う。願わくば日本のサッカー選手たちが彼らのような走法を基本として体得して欲しかったと、岡田武史は欲していたと思う。

ここまでの岡田武史の幾つかの試みは、身体表現における、サッカーという領域における魁として評価されるべき試行であると思う。いかにゲームにおける戦略、戦術をイメージしようが、それを具体化する身体能力が整っていなければ絵に描いた餅である。日本人選手にブラジルのような攻撃的なゲームを期待しても、体現できる身体能力が整っていないことを、岡田武史は冷徹に認識していたはずである。だからこそ、走りのエキスパートを自認する選手たちの自尊心をあえて括弧にくくり、走ることそのものの再検討を求めるような試みを実施したのだと理解している。

人間生理としての走ること、跳ぶこと、蹴ることから文化としての走ること、跳ぶこと、蹴ることへの止揚が岡田武史の視線の先にあったことは間違いない。そしてそのことが、一見迂遠な道ではあっても、日本サッカーが勝利するための道であると確信されていたと思う。