堀井 彰

美意識の陥穽

飢餓に襲われている人々や、紛争に巻き込まれ避難する難民たちの辛苦の姿を写す写真の前に立ちながら、不安、恐怖、不快といった不安定な感情を抱くことなく、写真作品を見ていられるとはどういうことなのか。一方で、日常の、他愛のない、どこにでもありそうな見なれた生活風景を撮影した写真を眼にして、収拾のつかない、納まりのつかない不安定な気持ちを抱かされるのはなぜか。

セバスチャン・サルガド「AFRICA」そして「木村伊兵衛とアンリ・カルティエ=ブレッソン 西洋と東洋のまなざし」などの写真展を見ての体験だった。

セバスチャン・サルガド「AFRICA」の写真群は、安心して美しい、すてきだと自分の体験を言葉に翻訳することが出来た。その体験は、アンリ・カルティエ=ブレッソンの写真作品にも体験できるものだった。しかし木村伊兵衛の写真には、きれいだ、すてきだといったたぐいの感想を言葉に翻訳できないものがある。というより不安定な心持を体験させられるといってもいい。不穏なほど気持ちは揺れ動くのだがそれを言葉に翻訳できない。それでいて、写真を見切ることが出来ないのである。

木村伊兵衛の写真を目にしながら、篠山紀信の写真のことを考えた。木村伊兵衛の写真と同じ質の体験を篠山紀信の写真にも感じていたからだ。

篠山紀信に木村伊兵衛の写真にかんする方法論に言及した発言がある。「木村伊兵衛氏の写真は既成のイメージのパターンをなぞるようなことはしない。常にその現場における流動している一瞬をかすめ撮って、その不安定の中になおかつ安定を見出してみごとに差し出してくれる」

アンリ・カルティエ=ブレッソンの写真を見ていると、彼の美意識を濃厚に作品の中に感じる。そしてその美意識が、西洋美術の伝統を継承、踏襲したものであることが、知識として理解できるのである。西洋の文化史の中に累積している「イメージのパターン」を忠実に再現していると理解することが可能だ。今回、セバスチャン・サルガド「AFRICA」の作品には、「イメージのパターン」の踏襲していることが鮮明に感じられた。そしてだからこそ、美しいといった感想を抱き、安心して見ることが可能であったのではないか。

もう一度、飢餓に襲われている人々を撮影した写真を安心してみられるということは、どういうことなのか? そこに現代という時代が用意している陥穽があるのではないかと思う。