堀井 彰

反復される映像-レニ・リーフェンシュタール『意志の勝利』

レニ・リーフェンシュタール監督「意志の勝利」を観た。

草森紳一著「絶対の宣伝」の中で、レニ・リーフェンシュタール監督「オリンピア」が言及され、「どうしようもない傑作である」と言わしめた才女が撮影したプロパガンダ映画である。しかし残念なことに、長い期間、作品を見る機会は奪われていた。第二次世界大戦前、ナチス・ドイツのプロパガンダを目的として制作され、ナチス・ドイツへの大衆動員を煽動、悲惨な結末を招いた戦争責任として、戦後公開が封印されていたという。公式公開が封印されるほどの映像作品とはどのようなものか、作品の何が、当時のドイツ人を熱狂させたのか、その秘密が知りたかった。

ナチス・ドイツの蛮行についての歴史的知識は持っていた。しかしそれらの予備知識以前に、映像の持つ力をあらためて認識させられる体験でもあった。
クローズ・アップ、そして映像の反復という手法が作品力の核心だと思う。

作品の中で、ナチス親衛隊、突撃隊、ヒットラー・ユーゲントを中心とする隊列の行進場面が強烈に印象に残った。親衛隊、突撃隊といった異形な存在の隊列だからではなく、反復と量の威力ではないかと思う。大地から隊列が湧きあがって行進してくるようなアングルの選択、撮影。そして隊列の行進が永続的であるかのような行進場面の反復映像。また行進場面に被る、隊列の跫、ドラミングの音。映像の反復と音響との相乗効果は凄い。

次ぎに、クローズ・アップの反復が印象的であった。画面一杯に映る若者の左右からクローズ・アップされる横顔、伸展される腕、その視線の、腕の差し伸べられる先は見えない。ただ、なにかを見ている、指し示しているという方向性だけが暗示されている。左右の横顔の、差し伸べられた腕の反復的なクローズ・アップ。そしてカットの反復の終点に、ヒットラーの上半身俯瞰映像が、正面を向く顔のクローズ・アップが、反復された眼差し、腕の指し示す主体として登場する方程式。

映像の反復、そして撮影対象そのものにおける、具体的にはうねるように行進する隊列の反復的登場、レニ・リーフェンシュタールの作品の魅力は、反復という編集術の構造に集約できると思った。街頭やスタジアムで、企画演出されたページェントを素材として、映像としていかに編集するか、その編集術の原理が映像の反復という構造を持っていることであった。

人間文化の修得構造そのものが、その修得の過程に反復という構造を持っている。子供が国語を習得することから、生活の作法の修得などにまで、その修得過程は反復構造そのものである。人間の文化において反復という構造は格別な力を持っている。

レニ・リーフェンシュタール監督「意志の勝利」の作品力は、この人間の文化における反復という構造に着眼し、映像の編集技術として駆使した結果であると。

1930年代のドイツが、時代状況としてどのような心性を持っていたかを感じることは困難だが、同じような、映像の反復という編集術の駆使は現代社会においても生きている。その具体例として、4年前の小泉郵政選挙の報道体験がある。最近も、タレントの覚醒剤事件をめぐる報道において、映像の垂れ流しとも例えられる映像の反復を体験している。とくにワイド・ショーと呼ばれる番組を筆頭に報道番組とされている定時ニュース番組まで、どこを選択しても同じような映像が時間を占拠していた。つまり、現代社会においては、レニ・リーフェンシュタールが「意志の勝利」において駆使した編集術が、公然と利用されているのである。彼女の場合はナチス・ドイツのプロパガンダが目的だったが、小泉純一郎の郵政選挙、そして酒井法子事件ではどのような意図のもと反復という映像技術は駆使されたのか、意図は希薄である。そして製作者においてその意図が空虚であるだけ、反射神経的な映像の反復には、ナチス・ドイツの時代状況より空虚な深刻さを感じるのだが。