ディシー沢板

「農」雑感 3

北海道の雪は”ゆきむし”で始まると言われる。”ゆきむし”とはアブラムシの一種の有翅虫で、ベルベットの白い衣をまとって浮遊する。「ゆきむしが飛んでいたよ。そろそろ雪だね。」そんな会話がごく普通に聞かれる。ただ、科学的には十分な解明はなされていない。

これまで農に関する思いを2回程書いてきたが、農ほど自然に左右される業(なりわい)はない。そしてその自然はあまりに複雑で、変幻自在で、巨大で……。人はその前で”ゆきむし”一つ解明できないままでいる。

今年の冬は雪が少ない。3月26日の岩見沢の積雪量は0㎝、例年同期と比べ何とマイナス55㎝である。こんなことはめったにない。普段の生活にはありがたいことであるが、農作業にはプラスとマイナスの両方が混在する。味噌汁の塩加減も多すぎず、少なすぎず、舌で覚えた適量が良い。減塩は体には良いかもしれないが、何とも味気ない。自然もそのものを体で覚えた普段通りがいい。それと似ている。

2年ほど前スイスに行く機会があった。ドイツで行われたワールドカップの日本VSブラジル戦を見た道中に立ち寄ったのだ。立ち寄ったのはバーゼルという街で、以前現アントラーズの中田がこの街のチームの所属したこともある。スイスと言ってもフランスやドイツに近い国境の街で、市内にはライン川が流れ、古城近くをトリム電車が走る落ち着いた街であった。ただ、スイスは物価が高い。バーゼルの人たちは週末、車を走らせフランスやドイツに買い物に行くらしい。(洋食にも飽きてきたので、私はバーゼルで唯一というラーメン屋に入ったがなんと高いこと、2000円の素ラーメン、ごちそう様でした。)

そんな、スイスでひとつ気になったことがある。スーパーも全体的に高いがその中でも輸入物と国産とで同じ野菜でも値段がかなり違う、なのにその高い方の国産を買う人がいること。有機野菜とか、高付加価値が付けられているとかいうものでもない。他国での安い買い物もするが、決してそれだけではないということ。大体、スイスなんて山岳国だし農業は大したことない。自国民の食糧を賄えることなど到底できない。自給率は54%くらい(でも40%を切るどこかの豊かな国より高い)である。

では何故スイス人は高い国産野菜を買うのだろう?考えても分からないので聞いてみた。定かではない面もあるが(言葉の問題もあり)、こうであると説明してくれた。スイスはEUにも加盟せず、未だスイスフランで独自通貨のまま、防衛もどこにも頼らない。そんな国が独立国として自立するには小さい頃からの教育で「自国」をしっかりと意識させることのよう。少しくらい高くても自国の農業のため、自国の経済のためにあえて国産品を買うのだそうだ(それならなぜドイツで買い物をするのだろう。うまく家計のバランスを取っているのか?)。日本でも戦略的に付加価値を付け高く売っている野菜もある(完熟とか無農薬とか)が、それとは趣がちがう。意識(意志)で買うようだ。

日本では農業再生のために農家の大型化、企業参入、農産物の付加価値付与、休耕地の再利用=米粉等の利用等々色々と施策が取られている。いずれも分からないわけではないし、間違いではないのだろうと思う。ただ、昔ながらの定食屋さんが看板の位置をどうしようとか、食券の自販機を導入しようとか、コップの水にレモンを入れたらどうかとか、そんな会話を店の奥でご主人と頼りない店員とが真剣な顔で話している様にしか見えない。

だから、「教育」というのも短絡的かもしれない。でも詰まる所スイスの例ではないが、意識的に国産品を購入しようとしない限り、経済優先、営利優先、右肩上がりの繁栄にならされた体には、簡単に国産品に手を伸ばす力はないだろう。

地域の商店がシャッター街になる。しているのは大型ディスカウントストアやホームセンターに出かけるそこに住む住民で、嘆いているのも同じ住民である。確かに競争は大事であり、シャッター街の店も営業努力は必要である。しかし、同時に住民が地域経済の視点や地域愛の感情を持たなければ、営利優先に馴れた怠惰を覚えた体は何も変わらない。

私は教育とか、形式、型にはまったことが好きではない。でもこのままでは、手も足も出ない逆さになった亀のように、誰かが(外圧が)ひっくり返してくれるのを待つまで何もできないままのような気がする。だから敢えて教育(変な右方向のものではなく)からのスタートが必要だと思っている。(その中身には今回触れないが)

農業は2つに分けて考えると考えやすい。ひとつは農の部分。お金でない豊かさ、ものを作る楽しさ、時間を気にしない牧歌、自分の世界の味わい、植物の成長の喜び、収穫の心地良さ、(生活ではない)生きることの意味。もう一つは業としての部分。家族の生活の糧、国民への食糧供給、自立した経営、安全・品質管理、(生きることではない)生活することの意味。農の部分は継続しなければならないし、守るべきものだと思う。一方で業の部分で生活するために意識を持って変化しなければならない。これは農家だけでなく、ものを買う側の国民の意識を変化させることである。それが教育によって可能になると考える。こんな考えは昼から喫茶店でビールでも飲む位に、場違いで、受け入れがたいものかもしれない。でも、そうでもしなければ立ち行かなくなる気がする。

雪の無くなりかけた街の風景を眺め、喫茶店でこの文書を書いている。”ゆきむし”を思い出し、農業についてあれこれと考えてきたこの「農」雑感も今回で終わらせて頂く。3回にわたり稚拙な思いつきを書かせて頂きありがとうございました。

書き終えホッとしたところで喉がわいてきた、コーヒーのおかわり……? いやいや場違いでもいいビールを貰おう。