堀井 彰

「生かされている」ということ -瀬戸毅己の作陶展から- 

知人の陶芸家・瀬戸毅己の作陶展があった。曜変天目茶碗の作陶に挑戦する数少ない陶芸家の一人である。会場には曜変天目茶碗のほか、織部、志野といった作品も展示されていた。
会場に展示される皿、器を手にしながら、作陶された作品から表現することについてさまざまな思考を強いられた。というのも、今年になって、写真家の中山岩太、高梨豊の作品展が開催され、又、NHKで写真家・森山大道の軌跡を追う企画が放送された。それらの企画に触発され、陶芸作品を愛でることは、写真作品を見るということはどのようなことなのかと、反問することとなったのである。陶芸作品と写真作品との間に存在する大きな違和感を体感した。

違和感を端的に表現すると、作品における作者意識の露出度の落差にあると思う。陶芸作品より写真作品のほうに、強烈な作者意識の表出を感じるのである。たとえば、瀬戸毅己の作品である茶器、皿などを手に持って、器の感触をたしかめながら愛でるときに、作者の作陶意図などは考えない。あくまでも作品そのものを手掌、目で感じよう、愛でようとする。

しかし写真作品となると、撮影対象の選択からはじまり、現像、焼きつけといった暗室作業の過程にまで、思考は撮影者の意図へ向かう。また、中山岩太、高梨豊、森山大道たちの作品を時間軸で見るとき、時代の美意識が、時代に対する写真家の姿勢が濃厚に浸透していると感じられる。この落差はどこから来るのか。写真家と陶芸家との間には、作者としての自己認識に相違があるのではないかと思える。

その自己認識の相違を象徴的に表現すると、「生かされている」という言葉をめぐる立場の相違と比喩化できる。
生きているという事実をめぐって、妙好人と呼ばれる浄土真宗の信徒たちの詩に謳われる「生かされている」ことへの感謝の念、他力への感謝の気持ちを抱く立場と、現代人に特徴的な強迫観念としてある、生かされていることを、檻に囲繞された飼育場で生きることを強制されているという自己認識の立場とに二分されるようだ。自然という他力によって生かされている、そのことによって自然への感謝の気持ちとして生かされていると感じる立場。他方、生きていることの背後に、将棋の指し手の存在を意識して、自分の生が描かれたシナリオに基づいているという強迫観念、自分が盤上の駒にすぎないという疎外者意識、そして自力で生きることへの執着。別の言葉で表現すれば、作陶過程における火加減などの他力と、「アレ、ブレ、ボケ」に象徴的な、写真における場面の選択から現像、焼きつけにいたる制作過程における自力と、作家の自己認識に大きな相違が存在するのではないか。作陶においては、その制作において一種の諦観が存在する。一方、写真制作においては自力の度合いが大きいと認識されていることに由来するのではないか。

かつて詩人・天沢退二郎は、自死について、われわれは自死することを許されていない。自死ではなく、殺されるのである、といった主旨のことを語っていた。この言葉が永い間、私の念頭から離れなかった。また、浄土真宗の宗徒である妙好人のように、生きてあることを、生かされていると感謝の念を持って受け入れることができなかった。あくまでも私が生きているのだと認識していたのである。私が体験した「私」意識こそ、宿便となってさまざまな病症を、「うつ病」という病症を体現しているのではないか。

「写真が瞬時の刺激をむさぼるだけの消費財と化す現在、見る力と、見えないものまでも想像する力を喚起する写真の真価が、写真集にはこもっている」

アメリカの作家・リーボヴィッツの写真展と写真集に寄せた現代芸術研究家・木幡和枝の文章の一部であるが、そのなかに写真という作品が消費財と化し、消費されることへの危機感の背後に、時代が孕む表現行為における陥穽の存在を感じるのである。この近代社会に特徴的な宿痾ともいえる陥穽について、

「アッジェはイメージをもたなかったが故に、世界を、現実を呼び入れることに成功した。あらゆる先験的なイメージをもたなかった故に、世界を世界として顕にした。だがすでにあまりにも多くを『知ってしまった』われわれにそれが可能であるのか? もし可能であるとするならば、まずみずからを捨て去ること、そこから出発する以外に道はないだろう」

一度は病に倒れ、ふたたび撮影を開始した中平卓馬は、病に倒れる前に、アッジェに触れて語っていた。だが、ここに語られている中平卓馬の認識は、日本の古典芸能の世界に伝承されている身構え、心構えを綴っているような錯覚に陥るものだ。舞い、踊り、そして武芸などの芸能においては、稽古を重ねることで技を身につけ、その場に臨んでは習い覚えた技は忘れ、身体に任せるという哲学である。己を捨てること、自己滅却が伝統芸能の至るべき境地とされている。

一方、近代知の発祥地である欧州でも、近代的な「人間」を至上とするイデオロギーに対する疑問が生まれはじめている。
「人間は最近の発明にかかわるものであり、二世紀とたっていない一形象、われわれの知のたんなる折り目にすぎず、知がさらに新しい形態を見出しさえすれば、早晩消えさるものだと考えることは、なんとふかい慰めであり力づけであろうか」

フランスの哲学者、ミシェル・フーコーの遺言と、受けとめている。