海野 清

田部直枝という人 その2

「本日休館」第8号(2008冬)

『聞き書き 画廊たべ「絵のある茶の間」物語』(里村洋子/著)を「自費出版ライブラリー」というNPO法人よりお借りして読むことができました。感謝。
本書の最後に、大倉宏氏が「消えない場所」と題して書いている文章は、田部直枝という人に真摯に向きあった人だという事がよくわかる。すべて言い尽くされている文章だと感じました。そのなかで田部直枝の簡単な紹介が書かれている部分を転載します。

「尋常高等小学校を出て、十四歳で給仕として銀行に入り、そのまま正式採用となり、新潟県各地の支店への転勤を繰り返して定年を迎えるという職歴は、堅実と言えばあまりに堅実な、言い方を変えればいたってまともで、平均的で、普通の人生である。退職後、銀行の組合編纂事務局に勤めたり一般企業で働いた後、自宅を開放しての画廊経営を始めたのは、六十代半ばを過ぎてのことであった。堅実な人生を歩んできたと見えた人が、「画廊」開設というただならぬ(そして危ない)事を始めたと、周囲の人々には唐突に見えたらしいことが、本書にも引用されている田部さんの銀行時代の同僚の感想から伺える。

けれど本書に回想されている、田部さんのその普通の人生の内容をよくよく観察してみると、この画廊開設へ踏み出すステップは、実は若き日々から徐々に積み上げられていったものであることが、はっきり見えてくる。画廊を開く一番の機縁は、哲三、清三郎という二人の画家佐藤との出会いであったことは、本書にも語られている。二人については、私も何度も話をうかがい、展覧会の手伝いもさせていただいたが、その二人との出会いを深く受け止める力を田部さん自身の内に育んだ、別の人々との意義深い出会いの数々があったことを、この聞き書きで私ははじめて知ることができた」

『聞き書き 画廊たべ「絵のある茶の間」物語』を読んでいて、田部直枝という人の「こういうところがいいなあ」と思ったところを以下、紹介します。

「佐藤清三郎との交流」

給仕仲間の集まりがあると、清三郎は画帳を持ってきて、皆に見てもらっていた。それは銀行への出勤途中に見かけた街の風景-川べりで洗い物をする女性、近郷から野菜を売りに出てきたおかかたち、自宅にある鉄瓶、自画像、休日にでかけた郊外風景などの素描が多かった。真夏の暑い日差しの中で汗をかきながら、あるいは寒さで手をこごえさせながらコツコツと描いた絵ができあがると、仲間たちに見せて批評をしてもらっていた。

実を言うと、その頃の私はそんな画論に入り込めないでいた。絵にそんなに詳しくなかったので、皆が熱心に議論をたたかわせるのをもっぱら遠くで聞いている方だった。だから仲間たちも、こいつに絵の話をしてもという風に私のことを見ていたと思う。

ただ清三郎は少し違っていたように感じる。たとえば私が後、白根へ転勤することになって仲間による送別会が開かれた時、皆が、「デンベ(田部のあだ名)、お前、清三郎の『露地』を引き受けれや」と私に言った。それは多分にからかい気味の口調であった。私が「よし、引き受ける」と応えると、ふだん物静かな清三郎が、めずらしく大きな声で、「田部さんからは金はもらわん。金をもらうような絵はやらん」と言い張った。当時私は舅から引き受けた小室翠雲と翠雲一門の絵を何枚か持っており、それを清三郎に見せていた。清三郎は、いい勉強になると喜んでいたから、絵に興味がないだろうと皆が私をからかっていることに反論してくれたのかもしれない。

「銀行退職前後」

やがて退職の時がきた。
1963年(昭和38年)6月7日、58歳の誕生日の日だった。新潟貯蓄銀行時代から数えると43年3ヶ月勤めたことになる。
退職が近付いた頃から人事部に頼んで、退職後の仕事を世話してもらうのが慣例となっていたのに、そういうことの苦手な私は何の働きかけもせず、退職を迎えてしまい、しばらく家にいた。

「高見修司展」

私が子どもの頃過ごした家の隣は、「涌井」という米屋だった。涌井米屋は広い板場のある店で、そこに米櫃が並んでおり、一升二升と小口で買いにくる客が多かった。板場は米ぬかでよく磨かれ、いつも光沢があった。子どもたちのいい遊び場にもなっていて、私と寿一郎、栄三、ヒサちゃん、モモ姉ちゃんといった仲間が集まってはパッチをして遊んだ。裸足のパッチ遊びに、この米屋の板場のひんやりした感触がとても気持ちよかった。

涌井の長女のモモ姉ちゃんは短いお腰に、半ちゃを着ていた。パッチを遊ぶモモ姉ちゃんの立ち居振る舞いは男の子のように活発であり、時に膝小僧や股がこぼれ見えた。その白い膚の魅力を少年(幼年)は、あの時、確かに知ったのだった。母にも姉にもないものを覚えたのだった。東堀前通には片原川が流れていて、向かい側の岸とともに柳並木が続いていた。

私が絵を描く術を知っていたら、この時の印象をどんな線と色彩で構成するだろう。高見修司の世界は私にも確かに、失われた少年時代の夢を思い出させてくれた。遺作品に囲まれながら私もいつのまにか、彼の世界にすっかり入り込んでいた。

今のようなサラリーマン生活ではないにしろ、14歳で給仕として銀行に入り、正式採用となって、58歳で定年を迎えたという堅実な人生。しかし、その日々の生活の中で感じること、考えさせられることが多かったのだと思います。そして、湧き出てくる、その日々の思いと誠実に向き合うことにより、67歳になってからはじめた「画廊たべ」はどうしても必要な場所だったのだろうし、そうして生まれた場所なのだと思います。

「画廊たべ」という場は、また多くの作品と人の出会いをつくり、経営・運営する苦労を含めて、田部直枝自身をも育んでくれる場だったことがよくわかります。日常の生活を丁寧に実直に積み重ねて生きた人、という印象を持ちました。

さまざまな人間が、さまざまな生まれ方をし、さまざまな生活を過ごし、そしてさまざまな死に方をしていく。本の中だけではありますが、田部直枝という人に出会えて、とても嬉しかった。そして、その人生に多少でも触れることができたことに感謝します。寡黙であるぶん、この人の思いの深さが感じられました。
『聞き書き 画廊たべ「絵のある茶の間」物語』は1999年9月7日発行。
田部直枝は2003年3月2日逝去、享年97歳。

今回は昨年10月豊田市のアート・スペース彩で開催された「宇野マサシ新作展」について掲載する予定でしたが、またの機会にさせていただきます。
次回、春号は2009年3月末に更新を予定しています。では、それまで、ごきげんよう。