堀井 彰

作品の個性は光に宿る -中川アイリンと前田敏行-

映像作品における光の重要性を、あらためて考えさせられる機会を持った。考えてみればあまりにも基本的ともいえる事柄である。しかし、光への感受性については、遠い昔に忘れものをしてきてしまったような喪失感があった。

九月、港区北青山にある「ギャラリーJY」で写真家・中川アイリンの作品展「固定された動き」があった。作品の中で、液体の詰った2本のガラス壜を並べ、光を一方向からそこへ照射した素朴な構図の作品があった。2本のガラス壜の輪郭に沿って光の反射が叢生した光芒が浮きあがる。個性的な光の表出であると思う。

輪郭を縁取る光芒の滲む感触がえもいえず、作品の前に立つ人間に心地よい陶酔感を体験させる。写真は光の芸術であるとあらためて実感させられた。光に多様なグラデーションが、個性が存在することを、光という存在の懐の深さを再認識させられたといえる。彼女のいくつかの作品に定着された光には、ものに反射することで誕生する光の編む空間には、人の心を和ませる、蕩けさせる力がある。円やかな光がたゆたっている。そして、円やかな光沢を生かすために、素材の質と、単純簡明な画面構成がシンクロしていて、光の存在感を際立たせていると思える。シンプルな画面構成、ガラス、金属といったものの質感の選択においても成功していると思える。そして作家の、自我を黒子に徹し、「もの」と光に語らせるという姿勢が、作品の持つ誘惑力を際立たせていると思える。彼女の自己表出は、ものに仮託して語らせる、そのつつましさが、逆に作品の前に立つ人間の想像力を饒舌にさせるのではないだろうか。

作者が小声でつぶやくことで、観客はすべてを聞こうと前のめりに、聞き耳を立てる。聞くことを強制するのではなく、聞き耳を立てさせるのである。

映像作品における光の凄みというか、作家は個性的な、独特な自分の光といったものを持っていると実感させられた作品を見た。

映像作家・前田敏行の8㎜映像作品のプライベートな上映会があった。上映作品は、前田敏行が97年から08年までの20年間に制作した作品16本である。08年04月、ロッテルダム映画祭で、日本の実験的映像作品を上映する企画があり、前田敏行の作品3本が参加した記念に企画されたものである。

プログラムの自注には、「撮影対象は、郊外風景・木造都営住宅・消滅と変容の東京風景・海外都市など。写真複写・コマ撮り・多重露光・そして写真を撮る視点」とある。

16本の作品のほとんどは3分から6分くらいの短編作品である。作品の印象は廃屋、廃墟に象徴される時間の停止、死へ執拗に拘る作者の姿勢が強く感じられるものだ。その作者の姿勢、意志を象徴的に語るのが、15年以上にわたり撮影している映画、映像関係者たちの墓石を撮影するという営為である。彼が敬愛してやまぬ映画監督の山中貞雄、小津安二郎からはじまり溝口健二など映画監督、俳優、そしてフランソワ・トリフォーをはじめとする諸外国の映画監督たちの墓石を撮影、作品化しているのである。「映画の聖地」としてまとめられた作品たちを見ると、アメリカの小説家、H・ミラーが残した詩画集「描くことはふたたび愛すること」の顰に倣えば、「撮影することはふたたび愛すること」となろうか。墓石へ注がれる作者の眼差しには優しさが感じられる。当然、おだやかな光にあふれている。

今回上映された作品たちは、その多くが、廃墟、跡地、磨耗といった言葉で語られる対象である。往々にして、住民が退去して風化朽ち果てた都営木造住宅、建造物が撤去された跡地、コンクリートの塊と化した同潤会代官山アパートの磨耗した手摺、階段といった対象を映像化するときに、映像は手垢にまみれた、レディーメイド化されたイメージに侵食される運命にある。

数年前になるだろうか、東京都立写真美術館で廃墟を主題として、写真家たちの作品展が企画されたが、手垢にまみれたイメージに作品たちが侵食され、時代の意味化への吸収力、イメージのヒエラルキーに絡め取られてしまっている現場に立ち会ったことがあった。映像が情報化された意味、イメージの秩序に絡めとられ、意味、イメージのグリットにピン止めされることで、吸血鬼に血を吸われるように、作品は生命力を簒奪されてしまう。

前田敏行の作品たちも、住民が退去し、生活が消滅すると同時に時間に侵食され、朽ち果てていく窓枠、割れたガラス窓、板壁、樋、磨耗した階段、手摺などをカメラが追うが、結果は、けして作者の意図が十分に映像に具現化され、時代のなかで延命していたとは思えない。ただ、その中で、作品「郊外へ」は、手持ち、多重露光、手ぶれといった手法が、都営住宅跡地という撮影対象とがシンクロして、見る人間に強烈な陶酔体験をもたらしたのである。そこには意味づけられることを峻拒する異化効果力があった。そして作品に生命力を付与しているのが作品に内在する光の演出であったと気づかされたのだった。この、アナーキーとも呼べる光が体現させる陶酔体験は、たとえば黒沢明が「羅生門」の中で、新藤兼人が「鬼婆」の中で駆使した光にも同定される、生命力にあふれた光の表出にあると思う。

前田敏行、中川アイリンの映像作品と出会うことで、光に対する感受性を喪失していたことが痛感され、あらためて光について考える機会に恵まれたといえる。

ガラス壜の縁にたゆたう中川アイリンの光は、清澄な詩情を紡ぎだし、人の心をなごませる深い静謐感の溢れた時間を醸しだしていた。また、前田敏行の「郊外へ」は、物狂おしいほどのアナーキーな陶酔感を体現させる異化効果力を持っていた。