石笑 辛一

求めない、ことが求められる

①『求めない』(加島祥造・著:2007年,小学館)
②『会話を楽しむ』(同・著:1991年,岩波新書)

まず、会話(カンバセーション)とおしゃべり(トーク)とは異なる。ユーモアとダジャレが違うように。日本人はどうも、会話下手である。一方、欧米人は会話上手と言うより、とにかくよくしゃべりたがる。沈黙を恐れるところがある。日本人は言いたい用件を言えば、後は無口でいて平気な所がある。欧米人は主張し、かつ理由づけや説明、付け足しせずにいられない。「Because」をさかんに用いる。日本人は相手に突っ込んだり、余計な口入れするのは失礼と思い、しつこく思われ、出しゃばりと思われたくない所が少なからずあるのに対し、欧米人はプライベート以外については、長々と自説を述べ、相手にも質問を浴びせるのを当たり前と思う。

20世紀は求める時代だった。「Seek and Seek教」という人もいるが、とにかく、スピードと若さ、物質的豊かさ・快適さを求め続けた。大量生産-大量消費-大量廃棄の時代だった。今21世紀は、求めない、ことが求められる?

ニンゲンは求める存在である。だから、求めないでいる事は至難な、不可能な事かも知れない。だが、たまにでいいから、求めることをやめてみよう。すると求めている時には見えなかったナニかが見えてくる……。

友遠方より来る、また楽しからずや。清談、閑談となる。美術談義や興ずれば楽器を合奏する。時の政府や世相の悪口も出よう。地球の未来を憂いもしよう。が、その目、しわ深くも朗らかである。所詮、世の中で起こることは大した事ではないと達観しているから、互いに腹蔵なく語り合える。酒をたしなむが酔い痴れないし、互いの見解が正反対であっても怒らない。

しかし心友というのは稀有な、求めても得られない、一生出会えない存在かも知れず、そういう人は、友をどこに求めるか? 兼好法師は古典の中に知己を得た。会話は必ずしも、目前の相手を必要としない。書物の中ばかりではなく、書に飽いたら山水を相手にする。ハゲ山の一本の松が、こよなき伴侶たり得る。ある日、リスが、狸が家の庭の内に飛び込んで来ることもあろう。これもまた楽しからずや。軒下に小鳥が巣を作り、ヤモリが這い、石ころの下にカエルがいる。

著者は今年85歳で、東京神田の生まれ育ちだが、現在、信州・伊那谷に住む。詩集を出し、水墨画をたしなみ、すぐれた翻訳家(フォークナー等)でもある。

昨年より今年にかけて出版した①が45万部の静かなベストセラーとなり、うちの女房も数冊マトメ買いして友人・知人に配った。私もそのうちの1冊をもらい、読んでみて、たちまち魅きつけられた。ただ、①は詩集なのか、名言集(アフォリズム)なのか? なんとも名づけがたき妙味がある。〝老荘的〟と言おうか。

そして数ヶ月して、たまたま神田古書屋で②を見かけて、ひまをみて拾い読みしたら、これまたスゴイと感心した。これは第一級のエッセイである。いく度読み返しても含蓄がある。そして、普段〝会話〟というものに無関心、無自覚だったと反省させられる。これまでナニを求めてさまよって来たのだろう?

真実・審美なるものは、ごく身近にあるのであり、いや既に持っているのである。