堀井 彰

憑依する身体-土方巽「疱瘡譚」-重心感覚が希薄化する中で

暗黒舞踏家・土方巽の作品「疱瘡譚」第六場のソロ舞台の映像が深く記憶され、機会あるごとに反問を強いられる強迫観念を抱いている。「疱瘡譚」第六場のソロ舞台の映像を素材に、彼の身体表現の魅=力の正体をつきとめたい。

暗黒舞踏家・土方巽の作品「疱瘡譚」第六場のソロ舞台の映像を目にして、舞台上に白塗りの身体を蛆虫のごとく蠢かせているだけの場面が、なぜに、かくも記憶の底に深く印象をとどめ、たえず反問を強いるのだろうか。舞台上に蠢く白塗りの身体はけして醜悪でも、不快でもなかった。心地よさ、癒されるといった体験をもたらしたともいえる。しかし映像の中には、バレーや舞踊、ダンスといった身体表現に見られる、美しいとされる身体的な所作は見うけられない。逆にさきほど引用した蛆虫や蛞蝓といった爬虫類的な動きが体現されているだけである。中心軸のぶれない回転、跳躍や繊細な動きを体現する指の動きといった所作事も、舞台の上には存在しなかった。ただ仰臥する身体が息づいているだけであるといってもいいだろう。しかし身体表現として価値を十分に動きのなかに秘めていることは事実である。なぜなら、私の関心を引きつけていたからだ。時間を忘れて土方巽の舞台を凝視していたからである。視覚的、聴覚的でもありながら、それ以外にも関係が成立する回路が存在するのではないだろうか、という思いが浮上してくるのだった。それは江戸時代の歌舞伎、能といった身体表現がおかれていた物理的な環境について、具体的には照明の暗さについて知識をえたときに、現代社会の基準では計かることの出来ない世界が存在するのではないかと想像することとなった。歌舞伎や能といった舞台体験が、現代社会のような、視覚優位の環境にはなかったということを考えたのだ。別に体験回路が存在していたのではないかと想像されたのである。具体的な例を挙げるなら、たとえば「腹芸」や「阿吽の呼吸」といった言葉に代表される回路の存在である。

現代では、舞台役者の一挙手一投足、そして繊細な指の反りかえりや流し目といった所作を、高輝度下の照明のもと、また映像で目にすることが可能だが、永い期間、劣悪な視覚環境の下にありながら、歌舞伎、能といった身体芸能は継承されてきたのである。その魅=力の源泉はどこにあるのか。

世阿弥の著書「花鏡」の中に次ぎのような記述がある。
『万能を一心につなぐこと。

観衆が能を批評して、よく「わざをしないで、じっとしているところが、なんとも言えずおもしろい」などということがある。これは、能役者の内心ふかく秘めた心のはたらきである。まず、二曲を初めとして、しぐさから、各種の劇的所作に至るまで、すべての身体の動きに属するものである。「わざをしない所」とは、その技と技との間の空白をいうのである。この空白が、どうしておもしろく感ぜられるのかと考えてみるに、その原因は、役者がすこしの油断もなく、演技する心の間隔を綰いでゆくもうひとつの奥の心に在るのである。舞の手をとめた空白、謡をうたわない空白、そのほか、文句でも、演技でも、あらゆる場あいの空白に際して、すこしも気をぬかず、内心の緊張を持続するのである。この奥の心の充実緊張が、舞台にあふれ出て、おもしろさとなるのである。しかしながら、注意を要するのは、役者がそのような心がまえをもっているのだと、外面に見えてはいけないことである。もし観客に見て取られたら、それは、もはや意図的な演技というべきもので、けっして「しない所」ではない。無心の境地で、自分の心を自分にもさとらせないような心がまえで、技の間の空白を綰がなくてはいけない。これすなわち、万の技能を一心で綰いで興趣を生む力なのである。』(小西甚一訳)

また、能舞台における「居グセ」に触れて、「物体から重心だけをとりだして、すべてを表現しようとするようなものだ」と増田正造著「能の表現―その逆説の美学」には記されている。「物体から重心だけをとりだして、すべてを表現しようとするようなものだ」という増田正造の指摘は、能表現に限定されることなく、土方巽の蛆虫のごとくに蠢く身体表現の魅=力のありどころをも適確に抉っていると思う。重心にとどまることにより、重心に心身を委ねることで、自然体を現出し、そのことによって新たな関係回路を創造するのではないかと思う。

世阿弥が「花鏡」の中で述べている「奥の心」というのも、重心を抱くことで自然体となり、自己放棄した立場を言っているように思う。重心を抱くことによって自然体となり、そのことで宇宙の秩序に憑依する。土方巽の作品「疱瘡譚」第六場のソロ舞台が魅=力を放射するのも、彼が重心を抱いているかだと想像される。舞台の上で蠢くような身体表現であるにもかかわらず、見る人間の心を呪縛する力を放射できるのではないか。

舞踏家・笠井叡は土方巽のダンスに触れて、次のように述懐している。
「完全に自分の体を客体としてモノにまで還元した踊りを、私はそのとき初めて見ました。ダンサーというのはいくらやっても、自分の体をモノにまでするのは、自殺するときくらいでないと出来ないですよ。それを自殺にやや近いくらいに自分の体を客体化して踊ったのです。手をひとつ動かすにも、普通ダンサーは中から動かすのですが、完全に外から動かしきった、そいうダンスでした。

動きとしては、床に手をおいていく動きの連続です。自分の手を自分の手が追いかけていく動きなのですが、それが自分の手というより完全に客体化された手を自分が追いかけるという即興の動きでした。あの動きはその後の土方さん振付けの中では出てこなかった。 ダンサーには、いくらなんでも自分の体を客体化するなんてできないわけです。体の中にいるわけだから、わたしの知るかぎりでは、あそこまで自分の体を客体として使ったダンスはたにありません。すごかったです」

そしてくわえて、土方巽の業績を、
「土方さん自身は、様式はたしかにつくったけれど、それ以上に意識を変えた人でしょう。ダンスの意識を変えたわけで、そっちのほうが大事ですよ。あそこまでダンスの概念を変えた人はいないと思います」

「自分の体を客体としてモノにまで還元する」には、重心にすべてを委ねることが必須であることは、さきの能についての理解の中に推定されることでもある。そして笠井叡が指摘する、ダンスの概念を変えた人、という理解を、人間の身体行動の概念を変えた人と読みかえることが必要だと思う。つまり人間の意図した動きではなく、思わざる動きの現出こそが、土方巽の身体表現の眼目ではなかったかと思う。バレー、ダンス、舞踊といった身体表現における所作事を、その成立初源において革命しようとしたのではないかと想像するのである。

先日、男子百メートルの世界記録の保持者であるジャマイカのアサファ・パウエルの走法を分析する企画がNHKの番組で放送された。先端技術を駆使して彼の走法を分析し、結論的には、彼の体をスキャンした結果判明した腰腸筋の大きさが感嘆されて、彼の速さの大きな要因と判断されたようだ。番組の中では、米国の百メートル走者であるタイソン・ゲイの走法が比較対照されたが、最終的には腰腸筋の量的相違、そして走法の違いが指摘されることで終わった。番組を見ながら、この種の企画を目にしたときにいつも体験する失意を味わった。最先端の技術を駆使しながら、結論はつねに、スポーツの場合は筋肉量に解消されてしまうのである。今回も、腰腸筋の大きさに、速さの問題は解消されてしまった。しかし問題は、ジャマイカのアサファ・パウエルにしても米国のタイソン・ゲイにしても、スタートの瞬間に彼らの後姿が饒舌に語っていた、二人の重心移動の繊細さ、凄さであった。重心移動の振幅に大きな相違が二人には存在していることを、二人の背後から資料として映像化しているにもかかわらず、資料解析する運動学の専門家たちには理解されていなかた。映像化された二人の重心移動の振幅の差に一言も言及しなかったのである。二人の走法が重心移動に依存していることに想像力が発動しなかった。

また、かつて圧倒的な速さを誇っていた元百メートル世界記録保持者の米国のモーリス・グリーンの走法で、百メートルの前半三分の一あたりまで、顎を引いた前傾姿勢を保持する走法を彼が採用した理由を、運動専門家たちは解析した気配はなかった。重心移動によって走るには、顎を引いた前傾姿勢が、そして呼吸法が必要であることを解析されることもなかった。短距離走者をはじめとして長距離走においても、またハンマー投げのような投擲競技においても、重心移動の必要性は、彼らのパフォーマンスを目にすれば歴然としている。重心移動による身体操法は、アスリートにかぎらず、舞台の役者、ダンサーにおいても、共通した身体的な必須条件である。だからこそアスリートたちの記録もさることながら、彼らのパフォーマンスが人々を魅了するのも、重心感覚を体現している身体操法によるのである。しかし残念なことに、日本の身体環境においては、腹、腰といった言葉が象徴的に意味していた重心感覚の意義は、忘れ去られていっているようだ。かつての日

本では、生活すること自体が、生活習慣そのものが重心感覚を中心とした自然体の形成過程であった。しかし現状はそのような環境が消滅しつつある。

コンテンポラリー、クラッシックなどといった身体表現にかぎらず、所作事、技術の熟練度も大事な要素であるが、暗黒舞踏家・土方巽の作品「疱瘡譚」第六場のソロ舞台、松坂大輔やイチロー、室伏広治などに代表されるスポーツアスリートたちの身体表現が醸しだす魅=力の源泉が、身体表現のジャンルの境界を越境して重心力にあることを再認識する時代状況にいたっていることを確認する必要があると思う。