石笑 辛一

老人にこそ、老いてこそ、文学は必要必然也

追悼の達人』(嵐山光三郎;新潮文庫,2002年)

先日、ターシャ・チューダー女史の訃報あり、92歳。アメリカ絵本作家にして庭園愛好家。19世紀風の自給自足”スローライフ”の生き方が世界的に共感を呼んだ。また今年始め、石井桃子逝く、101歳。「くまのプーサン」「星の王子さま」など、外国名作をいち早く紹介、日本児童文学界に新風を吹き込んだ。明治~戦中・戦後にかけて日本の男どもが戦争や経済に狂奔?した中で大袈裟なものではなく”小さくて静かなもの”を見守り愛し続けた稀有な女性だった。

以上は、しかし本や歴史を通じて知り得たことで、個人的には昨年二人の「心友」を失って、追悼文らしきものを書く機会があった。

人を偲ぶのはいいが、追悼文を書くってなかなかムズカシイ。死ねばホトケになるからとて、余りホメてばかりも白けるし、一方、ホントの事ばかりでは、身内親族の方々を傷つけかねない。

上記の本は、明治~大正~昭和の作家・詩人・画家・彫刻家ら47人の追悼文を丹念に集め、それに著者【嵐山光三郎(1942~)】一流のコメントを加えてあり、一読・再読に価する。こんな書物からナニか教訓めいたことを知得できるかと自問すれば、まず、うかうかと死ねないなという事と、どんな立派な業績を上げようと、100%ホメられ、好かれるという事もない。逆に後世の評価を気にかけて生前の身と行ないを清く正しくするなんて生き方は、くそ面白くもナイ。幸い?この書に登場する故人・大先輩方は、ひと癖も七癖もあり、波乱万丈、まことに生きざま死にざまがお見事。

漱石は追悼文を沢山書いており、一方、川端康成は、よく文人たちの葬儀委員長を務めたが、表題の「追悼の達人」とは、どうやら川端康成を指すらしい。芥川は、島崎藤村を”老かいな偽善者”と切り捨てたが、川端は、三島の割腹自決を”もったいない”と述べ、その数年経たずに、自らもガス決した。一体に、短命なるがゆえに栄光を手にした者もいれば、なまじ長生きしたために評価を貶め、生前とっくに過去になった人もいて、例えば武者小路実篤の晩年の痴呆ぶりには目を覆いたくなる。トシは取りたくないものよ。

しかし、年々トシを取るにつれ、新聞を手にすると、まず訃報記事に目がゆくのは事実である(次に新刊の広告・書評欄)。「エッ早すぎる」と思える人もいれば、「まだ存命していたのか」と驚かされる人もいる。

そして、ボク自身の文学観が変わってきた。大ていの人にとって、文学は青年期のもので、芥川、太宰などは一定の年齢になれば卒業してしまう。しかし”青春の文学”があるなら、”老年の文学”もあってしかるべきで、老人にこそ、老いてこそ、文学は必要必然也、と思えるようになった。

ひと言ことわっておけば、文学(ブンガク)はあんまり好きでナイ。文楽(ブンラク)がいい。同じ様に、音学(オンガク)は嫌い。音楽(オンラク)が、ますます好ましく楽しくなった。おっとと、今朝の新聞を見れば……。