檜山 東樹

「沈黙」との邂逅

映画「沈黙 サイレンス」のシーンスチール画像(「沈黙 サイレンス」<a href="http://chinmoku.jp/">公式サイト</a>より)

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 マーティン・スコセッシの監督映画『沈黙-サイレンス-』を観た。”ギャング映画の巨匠”と言われるスコセッシが描いたのは、遠藤周作の『沈黙』の世界である。

 『沈黙』を読んだのは20歳代の頃。歴史知識にはそれなりに自負があり、史実・史料にも浅薄ながら多少は通じているつもりでいたが、宗教については若気の無知・無関心を無神論と言いつのっていたこともあって、物語としては興味深く読んだが、そこで遠藤が何を伝えようとしているのか、今ひとつよくわからなかった。それは、1971年代に篠田正浩が原作者の遠藤と共同脚本で撮った映画(『沈黙 SILENCE』)でも同様だった。いや、むしろもっと「?」が増えた印象だったような記憶がある。

 だが今度、スコセッシが映画にしてみせたそれは違った。ようやく、そうか、そういうことかと、あらためて原作に、遠藤の想いに邂逅したと思われたのだった。
 とりわけ印象的だったのは、主人公の若きポルトガル人司祭、セバスチャン・ロドリゴが、隠れキリシタンの民たちに加えられる苛烈な弾圧と残虐な拷問についに耐えかね、幕府長崎奉行が求める”転ぶ”=棄教を受け入れるシーン。「こうして司祭が踏絵に⾜をかけたとき、朝が来た。鶏が遠くで鳴いた」と、わずか一行程度で記された原作のこの場面が、じつに多くのこと語り、劇的でクライマックスと言えるところかを、スコセッシは見事に描いてみせてくれた。

 奉行所の庭に置かれた踏み絵のための銅板。そこには主イエスの像が彫されている。ついに棄教を諒とし、その証として神の像を踏むことを求められるロドリゴ。土足を乗せようとして尚躊躇する若き司祭に、それまでどれほど彼が悩み苦しんでいても、いつも「沈黙」するばかりだと思われたイエスのの声が聞こえる。「踏むがよい」と。「お前の⾜の痛さをこの私が⼀番よく知っている」・・・と。

 ロドリゴがイエスの像を踏むシーンは、映画でもこの物語のクライマックスで鮮烈だが、そのズームカットは瞬時で、すぐにカメラは引き情景全体が映し出される。漆黒の闇に覆われていた弾圧の庭の空が薄明の青みを帯びている。そして、遠くから一番鶏が明けの声を告げる・・・。ゾクッとするような映画の凄みを、ひさびさに感じた。そして、カタルシスが訪れる。
 そう。神は「沈黙」するばかりではなかったし、ラストのカットを見るまでもなく、ロドリゴはけっして転んで(棄教して)はいないことを、完璧に映画の文法で語ってみせてくれた。かつての浅薄な若い読者には伝わらなかった原作の核心に、数十年を経て邂逅した瞬間だった。

 キリスト教に疎い者にはピンと来なくて当然だが、「鶏が遠くで鳴いた」は新約聖書の「ペテロの否認」に因んでいる。昨日までとは違う日の始まりを表す一番鶏ではない。信仰と殉教の狭間で苦悩しながらイエスを踏むことでイエスと深く出会うロドリゴは、十三使徒の一人ペテロとも重なる。自らも転びキリシタンである通詞の武士が言う「形だけ」転ぶのだが、けっして信仰をけっして捨てることはない。イエスを内に抱え再生するのだ。

 17世紀の日本が舞台の、日本の文学作品である遠藤周作の『沈黙』の真意を、マーティン・スコセッシはみごとに映像化した。
 英訳であろうが原作本と出会い、生前の遠藤に映画化を申し込んだというスコセッシ監督が、28年もの間構想し続けた念願の作品。かつての衝撃的で魅了された、あの『タクシードライバー』にも通じる不穏な空気と緊張感の漂うスコセッシらしい映像のトーン。ハリウッド映画だがけっしてエンターテイメントではない。3時間近い大作だが一時もスクリーンから目を逸らさせない展開。エンディングロールが流れ終わったときの満足感。映画を観ることの至福を久々に感じた。

 この映画には、まだまだ語りたい欲求に駆られるシーン、カット、映像が多くある。もう一人の主人公であり、ロドリゴやペテロの、ある意味で鏡面でもあるキチジローの在りよう。ロドリゴの師フェレイラが言う「この国は沼だ。すべてのものを腐らせていく」ということば。キリスト教における殉教的信仰と再生に対して仏教の悟りとの交差・・・・・。

 そして、そのどれもが俳優たちの好演と不可分だ。
 主演のアンドリュー・ガーフィールドは、『スパイダーマン』とはまったく違う苦悩の表情が素晴らしい。窪塚洋介にはキチジローそのものを生きているようなリアリティがある。
ロドリゴとともに来日し、辿り着いた異国のキリスト教へ苛烈な現実にも揺らぐことなく、信徒を助けようとして殉教するガルベ司祭を演じるのは、『スターウォーズ フォースの覚醒』の”ダースベイダー2世”的敵役、カイロ・レンで注目されているアダム・ドライヴァー。彼は、今日的な聖職者のイメージとは違う、この時代のイエズス会士像をイメージさせて印象深い。そう、17世紀日本へのイエズス会による布教は、大航海覇権を競う西欧植民地主義の先駆的な探検でもあり、渡来した宣教師たちは聖戦士の気概と荒々しさを備えていたはずだ。

 モキチの塚本晋也の真摯な演技には、同じ映画作家としてのスコセッシへの深い敬意が感じられる。転びキリシタンでもある通詞役は、当初は渡辺謙がキャスティングされていたと言うが浅野忠信で正解だ。モニカの小松菜奈もいい。
 イッセー尾形はいささかやり過ぎの感もあるが、セリフもなく一瞬の目の表情だけで宗教談義のシーンを息詰まるものに締めた中村嘉葎雄の老練が凄い。

 残念ながら第89回のアカデミー賞には、撮影賞(撮影監督ロドリゴ・プエリト~第64回ヴェネツィア映画祭金オゼッラ賞受賞)でのノミネートだけに終わったが、マーティン・スコセッシ監督26年越しの念願の企画が素晴らしい映画作品に結実したのには、脚本を共作した著名ライター、ジェイ・コックスと編集のセルマ・スクーンメイカーという、監督と同年代の盟友の力も大きいことを記しておきたい。
 個人的には、少なくとも同じく大作だった『ギャング・オブ・ニューヨーク』よりも、スコセッシ映画の中でこの先繰り返し観たい作品になることは間違いない。