洲之内徹

「青い、小さな、スーッとするような絵」より

「なぜ自分がこんなに「ポアソニエール」に惹きつけられるのか判らない、とKさんは言う。判らないし、うまく言えないが、私がこの絵のことを書いているところを読むと、方々で、自分も同じ、そのとおり、そのとおりと思うのだ、とも言った。

そのKさんが自分も同じ、そのとおりと思うというのは、例えばこんなところらしい。私もKさん同様、ただ私のほうは戦争中に、この絵を最初複製で見たのだったが、
――それでも、こういう絵をひとりの人間の生きた手が創り出したのだと思うと、不思議に力が湧いてくる。人間の眼、人間の手というものは、やはり素晴らしいものだと思わずにはいられない。他のことは何でも疑ってみることもできるが、美しいものが美しいという事実だけは疑いようがない。

――知的で、平明で、明るく、なんの躊いもなく日常的なものへの信仰を歌っている「ポアソニエール」は、いつも私を、失われた時、もう返ってはこないかもしれない古き良き時代への回想に誘い、私の裡に郷愁をつのらせもしたが、同時に、そのような本然的な日々への確信をとり戻させてもくれた。頭に魚を載せたこの美しい女が、周章てることはない、こんな偽りの時代はいつかは終る、そう囁きかけて、私を安心させてくれるのであった。

と、私は『絵のなかの散歩』の中で書いている。ここで言っているのは、戦争も終りに近い頃、私が軍司令部で対共産軍情報を担当させられ、心に思い屈するような日々の続く中で、この絵の複製を見たときの感想である。そこが私とKさんとのちがいで、Kさんのほうは手術のあと、再び生きる希望をとり戻し、心に喜びが満ちているときだったのだ。

しかし、それはそれとして、Kさんと話をしているうちに、私は、いま自分でここへ引用したような「ポアソニエール」についての私の感想が、ほんとうに私があの絵を最初に見たときに感じたものかどうか、ふと疑わしくなってきたのだった。あれを書いたのは、私が最初にあの絵を複製で見たときから、数えてみれば三十年も経っている。あの本を書くとき、私は、その最初の感想を、多少なりともこしらえはしなかったか。そうでなくても、一枚の絵を見て感じるものが、こんなに整然としたものであるはずがない。Kさんは私の書いたものを読んで、そのとおりと思うと言うのだが、私のほうこそ、自分がなぜこんなにこの絵に惹かれるのかわからないというKさんに、ほんとうは私もそのとおりだった、と言わなければならないのではあるまいか。 …………」