堀井 彰

藤田嗣治からレオナール・フジタへ



 宗教は心の祖国となりえるか? レオナール・フジタが日本人藤田嗣治であることを捨て、カトリックに改宗した背景にさまざまに思いをはせてみた。

 ポンピドゥー・センター傑作展のなかで、レオナール・フジタ作『画家の肖像』(1928年)は孤立感の漂う特異な存在に思えた。フジタ創出による乳白色の人肌、そして面相筆による線描が特質の『画家の肖像』は、彩色豊かな西欧の作家たちの絵画の中で、血縁も地縁も皆無の弧絶した存在の印象を持っていた。

藤田嗣治「画家の肖像」(1928年 油彩 仏ポンピドゥーセンター)

藤田嗣治「画家の肖像」(1928年 油彩 仏ポンピドゥーセンター蔵)

 展示されるほとんど作品は、シャガールにしてもピカソにしても、出自の地域は異なるにしても、作品にはある共同性の流れが通低するのを感じるのだった。しかし藤田の作品はすわり心地が悪く、他の作家たちとのあいだに親和感を感じることは出来なかった。

 ヨーロッパで日本人画家といえば、レオナール・フジタの名がまずは挙がるほどの有名人である。たしかにフジタによる乳白色の人肌と面相筆にかかる線描の繊細な世界は特異な存在で、西欧人が抱いているエキゾチシズムへの憧憬をくすぐるには十分な世界である。結果としてフジタはヨーロッパ美術史の中に位置を占める稀有な日本人画家になったが、それは点としての位置であり存在の共鳴力、波及力という面から見ると、断絶、孤立しているとしか思えない。受容のされかたは、ものめずらしい世界といったものに過ぎなかったのではないか。

 フジタはヨーロッパ美術史の風土に同化することを拒み、日本画の技術を駆使した乳白色の人肌、面相筆による浮世絵的な繊細な線描でパリ画壇の注目を集めることになった。パリの他の日本人画家たちが、その時代に活躍する西欧画家たちを師と仰ぎ、西欧世界に同化しようとする植民地的世界のベクトルが主流だったのに対し、一人反旗を翻し、自身が日本人であることの特質としたその具体的な姿が、乳白色の人肌であり面相筆であったのではないか。

 パリ画壇の西欧美術界に名をはせたフジタは祖国である日本に帰国するも、期待した賞賛、評価を受けることはなかった。逆に、彼を迎えたのは妬(ねた)み嫉(そね)みよる誹謗中傷ばかりであった。

『レオナール・フジタ-私のパリ、私のアトリエ」(ポーラ美術館・監修、東京美術/2011年3月発行)と、2013年4月~6月、静岡市美術館にて開催された『藤田嗣治渡仏100周年記念 レオナール・フジタとパリ 1913-1931』図録

左:『レオナール・フジタ-私のパリ、私のアトリエ』(ポーラ美術館・監修、東京美術;2011年), 右:2013年、静岡市美術館にて開催された「藤田嗣治渡仏100周年記念 レオナール・フジタとパリ 1913-1931」図録

 西欧絵画の技法とは異彩な、乳白色の人肌や面相筆でエコール・ド・パリの寵児となったフジタだったが、そのことによって逆に歴史の孤児となった。結果として祖国日本を追放されるように出奔せざるをえなかった彼はフランスに戻ったが、そこにかつてのエコール・ド・パリの楽園を見ることはできなかった。ヨーロッパ人でも日本人でもない祖国喪失者、ただのデラシネとしての自分を確認することとなったのではないだろうか。 『画家の肖像』を見ながら、死期を前にしてカソリックの洗礼を了承したフジタの、その心中を忖度した。デラシネの自らが帰るべき世界を求めたのではないか、と。