洲之内徹

絵のなかの散歩<関根正二「魚」>より

関根正二の作品「魚」の画像(新潮社『絵の中の散歩』口絵より)

関根正二「魚」(新潮社『絵の中の散歩』口絵より)


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 電車に乗ると、私はすぐに包みを解いた。
「あ、こら関根だ、うんと若い頃だな」
 絵を手にとって一目見るなり、伊東さんはそう言った。あんまり簡単に断定されて、却って私は拍子抜けがした。何時頃の作品か、重ねて私は訊いてみた。
「さあ、十五か六くらいだろう、下手な絵だよ、どうだい、このサインなんかの子供臭いこと・・・・・・」
 それっきり、絵を傍の座席の上にほうり出しておいて、伊東さんは関根正二の昔話をはじめた。
 そのときの伊東さんの話はたいそう面白くて、後で書きとめておかねばならないと思いながら、不精者の私はそのままにしているうちに大方忘れてしまったが、関根と上野山清貢との交渉の話は特別で、これだけは憶えている。
 関根は上野山清貢を尊敬して、始終上野山の家に出入りしていたが、上野山の当時の細君は女流作家の素木しづで、結核を患っていた。ところで、関根は、天才は肺病でなければならないと考えていて、なんとかして自分も肺病に罹ろうと思い、上野山夫人の使った茶碗をわざと洗わずにそれで飯を食ったりして、苦心惨胆の末、ついに目的を達した、というのである。
 こういう話は普通、作家の年譜などには入っていないし、入れようもないだろうが、案外、歴史の真相というものは、こういうものなのではないだろうか。いずれにしても、天才といい、肺病といい、なにか大正という時代の体臭を感じさせるような話である。
 年譜といえば、私の知る限りの関根正二の年譜や評伝の中には上野山清貢の名前が出てこないのであるが、これはなぜだろう。後になって読んだのだが、広津和郎氏の「年月のあしおと」の中にも、上野山清貢と関根正二の交渉を窺わせる記載がある。広津さんが本郷の八重山館にいたころ、下宿の向いに久米正雄が、こちらは一戸建ての家を構えて住んでいたが、当時、どちらも油絵をかいていた。久米正雄が二科に出品するつもりの絵をかいているところへ関根が訪ねてきて、その絵を見るなり、「あ、ちがう、ちがう」と言ったのを、その場に居合せた上野山清貢がまた広津さんに話して、「これ以上辛辣な批評はないよ」と言うのである。上野山はまた、関根は帝大病院で蓄膿症の手術をしてもらったら、急にいままで見えなかったガランスの色が見えるようになった、と広津さんは言っている。
 このガランスは、ひょっとすると広津さんの記憶ちがいで、上野山はヴァーミリオンとか赤とか言ったのを、同じ赤なのでガランスと記憶してしまわれたのではないだろうか。さもなければ、長年の間に、広津さんの記憶の中で関根と槐多がごっちゃになってしまったのではないだろうか。専門家の上野山がヴァーミリオンとガランスをごっちゃにするとは考えられないからであるが、ともあれ、関根のあのヴァーミリオンも、初期の彼のパレットにはなかったのだと考えてみることもできる。
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※『絵の中の散歩』(1973年初版・刊)から抜粋
(新潮社・刊気まぐれ美術館シリーズ(全6冊セット)所収)

[Editor`s Note]

 関根正二は1899(明治32)年、福島県白河市生れ。9歳のときに一家とともに東京・深川に移り住む。小学校の同級生に伊東深水がおり、伊東の紹介で印刷会社に勤め、このころからほぼ独学で絵を描きはじめる。

 1915年(大正4)年、16歳の作品『死を思ふ日』が二科展に初入選。同じ年の院展で受賞した村山槐多とともに「強烈な個性で世間を瞠目させ」る。関根のヴァーミリオン(朱)、槐多のガランス(茜)と違いはあるが、同時期に画壇に登場した夭折の天才画家二人が、それぞれの狂熱をカンバスに託した色が同じく赤であったことはよく知られている。
 その後、関根19歳の時に第5回二科展に出品した『信仰の悲しみ』が樗牛賞に選ばれるが、1919(大正8)年、前年に受けた蓄膿症手術の経過が悪かったうえに、風邪をこじらせて肺炎に罹り、20歳の若さで逝去した。

 ある日曜日の午後、洲之内徹は通りがかりの古道具屋の店先で、「正二」とサインのある作品『魚』を見つけ、真作かどうか迷いながらも購入。はじめに美術評論家・柳亮(1903~1978)にこの絵を持っていくが、「ちがうと思うね、関根の青はプルシャン・ブルーだが、これはウルトラマリンだよ・・・・」と否定される。次に二科の頭領格で関根の面倒をよくみていた画家・有島生馬(1882~1974)を訪ねるが、「ずっと若いときのことはぼくにはわからない。そうだ、伊東深水君に聞いてみたまえ……」と電話で紹介してもらう。
 雨風の中、絵を抱えて北鎌倉の伊東邸へ向かった洲之内は山道で迷ってしまう。そこに折しも東京へ向うためにやって来た伊東深水に遭遇、絵は電車の中で見ると言われて同乗したくだりが上記引用部からである。

 それにしても、あるはずのない場所から夭折の天才画家の、しかも知られざる作品を見つけ出してきた洲之内徹の眼力というか、希代の絵を見る眼については、すでに何人もが語り伝えているが、この一文のエピソードを介してもつくづく不思議な力をもった眼であると思う。(海)