洲之内徹

気まぐれ美術館「横雲橋の上の雲」より

佐藤清三郎による川端で洗い物をする女の素描画像

佐藤清三郎の素描・スケッチから。(『ひたむきな目 佐藤清三郎画集』)


 保土ケ谷の釜台住宅の「しま鮨」という鮨屋さんへ先日、十一月に入ってまもなくのある晩、私は、鮨を食いにではなく、佐藤清三郎の話を聞かせてもらいに、そこの主人の小島さんに逢いに行った。小島さんは新潟の人で、戦前、新潟で銀行に勤めていた頃、佐藤清三郎と同僚だった。
・・・・・・佐藤清三郎は新潟市の西堀通りの生れで、大正十五年の春、高等小学校を卒業するとすぐ新潟貯蓄銀行へ給仕になって入り、昭和二十年の一月に召集されて四ヵ月後(ということは終戦の四ヵ月前ということにもなるが)に戦病死するまで、生涯下積みの銀行員として働きながら、独りで絵を描いていた無名の画家である。世間的な意味では画家と言えるかどうかもわからない。しかし、この人は生じっかな職業画家よりもはるかに画家らしい画家だった、と私は思っている。・・・・・・・・・・・・
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しかし清三郎の女たちは、哲三の、戸口に立って出征する息子をだまって見送ったり(「農婦」)、農繁期の親たちから預かった子供に食事をさせたり(「農村託児所」)、額を寄せあって戦争のニュースを読んだり(「ニュース」)する、そういう男や女たちではない。清三郎の女が水道端で米を磨いでいるのは、銀行員の彼が出勤前の時間に絵をかきに行くのでその姿にぶつかるというまで、野菜売りや魚売りの女は、彼がスケッチをしに行く朝市で見掛けるというまでである。その辺にいるあたりまえの女をあたりまえに見て、描いたまでだ。
だが、佐藤哲三と佐藤清三郎と、この二人の佐藤の、いちばん大きなちがいはそこだろう。ここのところで、この文章は初めに戻るわけだが、社会的な関心はありながら、これをひとつの政治的な立場から見て、その方向で捉えるということを、清三郎はしないし、しようとしなかったのである。彼の世界観は哲三のようには楽観的であり得なかった。そのことの可否を言うのではない。ただそのような彼の現実認識と諦念とが、例えば風景を描いても、それをあんなに深い孤独の色に染めるのではないだろうか。佐藤清三郎のイメージは実に孤独である。
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※『気まぐれ美術館』(1978年初版・刊)から抜粋
(新潮社・刊気まぐれ美術館シリーズ(全6冊セット)所収)

[Editor`s Note]

「横雲橋の上の雲」は、洲之内徹が1974(昭和49)年から月刊『藝術新潮』に連載を開始した美術エッセー『気まぐれ美術館』の第1回として執筆した一文である。既にして、画家とその絵に対する洲之内独自の眼力が効いている言葉が、文中随所にある。
佐藤清三郎の略歴については、本文にも洲之内自身の聞き書きしているが、若干事実誤認もあるようなので、2007(平成19)年に新潟市の砂丘館(旧日本銀行新潟支店長役宅)で催された『越後を愛した美術評論家 没後20年「洲之内徹と新潟」展』の「出品作家略歴」に依って以下に記す。

佐藤 清三郎(さとう せいさぶろう):1911(大正15)~1945(昭和20)年
新潟市生まれ。新潟尋常高等小学校高等科卒業後、銀行に給仕として採用され、のち支店長代理まで務めた。1935(昭和10)年、1938(昭和13)年、県展に入選。東京に行き三芳悌吉に教示を請う。新潟では小熊金之助、佐藤哲三に批評を求める。
1945年応召したが、横須賀でグループ性肺炎のため死去(享年33歳)。死後、数点の油絵と、堀端や信濃川縁、働く人々、自画像などを描いた素描多数が残された。
1973(昭和48)年、洲之内徹が自身の経営する現代画廊で遺作展を開催、さらに翌年、『藝術新潮』誌上で紹介(上記参照)。
1975(昭和50)年と1985(昭和60)年には新潟県新発田市の画廊たべが、また、1978(昭和53)年、新潟のアトリエ画廊が、それぞれ遺作展を開催。さらに、1987(昭和62)年、新潟市美術館の「夭折の画家たち展」に作品が展示される。
1992(平成4)年『ひたむきな目 佐藤清三郎画集』が、田部直枝・佐藤ナホ・小沢清子・小島隆子・丸山哲男・大倉宏らの刊行委員会によって出版される。
2000(平成12)年、新潟絵屋で、2004(平成16)年、砂丘館・旧日本銀行新潟支店長役宅で、それぞれ遺作展。