海野 清

『佐藤清三郎画集』と宇野マサシ「続・僕の風景」

佐藤清三郎による素描のポストカード写真

佐藤清三郎による素描のポストカード



 2007(平成19)年10月、新潟市の砂丘館で開催された[越後を愛した美術評論家 没後20年「洲之内徹と新潟」展]に行き、初めて佐藤清三郎の絵を目にしました。ほかに佐藤哲三、田畑あきら子、峰村リツ子の作品も出品されていました。当然、はじめて見る作品ばかりでした。
 そして、たくさんの作品の中から佐藤清三郎の「屋台」という名のパステルで描かれた、屋台の灯りが燃えているような赤が印象的な作品を、深い孤独感がにじみ出ていて「盗んでも自分のものにしたくなる絵」として選びました。(参照)

 新潟から帰ってきてすぐにこの『-ひたむきな目-佐藤清三郎画集』を手に入れることができたのは、今から考えるとラッキーでした。うきうきしながら「屋台」が載っているページを開きました。しかし、私が見てきた実物とは、まったく印象が違いました。「生の絵が持っている力って凄いなあ」と、その時はじめて感じました。

 敬愛する宇野マサシ画伯の「続・僕の風景-人と絵と放浪と-」が、愛知県豊田市の地方新聞社「矢作新報」(毎週一回発行)に連載されていて、以前からWeb上で興味深く読んでいましたが(現在は「僕の旅」にタイトルが変わっている)、2008年9月5日号掲載の「佐藤清三郎」のところで、以下に引用する文章と出会いました。

 「僕がはじめて佐藤清三郎の絵を田部直枝の自宅で見せられた時、直感的に思い浮かべたのはゴッホの素描である。
絵の描き方というよりも何か本質にゴッホを感じた。という言い方はすぐに西洋の絵画を引き合いに出す日本人の悪い癖かもしれない。そういう癖は佐藤清三郎の絵を正確にみる障害になるかもしれない。彼が時間を惜しんで描いた風景、人物、静物、自画像は、その時代の新潟の空気を捉えていることによってただ対象を描く絵を越えて、清澄な詩情を湛えている。清三郎が天性の画家の資質を備えていたのはそこである、と僕は思う。日本の原質を描きたい、そういう絵画を目指す僕にとって佐藤清三郎の絵は羨ましい絵であった。クレヨンで色彩された清三郎の新潟駅近くか何処かの屋台を描いた提灯の絵の赤が、僕の昔の豊田駅前の屋台風景を思い出させ、その美しさが未だに僕の目に焼きついている。」

 うれしかった。飛び上がるほどうれしかった。
佐藤清三郎の「屋台」を宇野マサシ先生も以前に見ていて(それも田部直枝の自宅で)、あの印象的な赤について書かれていること。短い文章ながらわかりやすい言葉で佐藤清三郎の素描の素晴らしさを表現していて、驚きました。なによりもこの一文は、この「本日休館」を継続していくのに大きな力をもらいました。
 絵画に関してさしたる知識もないまま「本日休館」サイトを開設して間もない、迷いと手探りの状態にあったときで、いつサイトを閉じてもおかしくなかったのですが、宇野先生のこの文章を読んで「しばらくは今のまま、このまま続けて行こう」と決めました。

 『佐藤清三郎画集』には清三郎による素描を印刷したポスト・カード(写真)が、1枚挿まれていました。また最終ページに、刊行にあたり協力された300名以上の方々の名前が記載されています。

「ひたむきな目 佐藤清三郎画集」の表紙ジャケット画像ひたむきな目 佐藤清三郎画集

本日休館書店所蔵DATA:
1992年3月31日発行
編集・発行 佐藤清三郎画集刊行委員会