堀井 彰

好きこそものの上手なれ -からだが気持ちよくなることが必要だ-

贔屓にしていた県立高校野球部が、夏の全国高校野球選手権県予戦一回戦で再逆転され敗退した。今年は四回戦くらいまでは進出できるのではないかと期待が大きかっただけに、失望も大きかった。しかしその後、多くの試合を見学、またはテレビ観戦することで、勝つべくして勝ち、負けるべくして負けるという事実を納得するのだった。

昨年、今年と、上位に進出したチームの投手陣は、理にかなった身体操法を体現していた。理にかなった身体操法とは、前回引用した中日ドラゴンズ落合博満監督(以下敬称略)が著書「落合博満の超野球学①」の中で指摘している「上半身と下半身には反対の動きをさせ」、「正しい体の使い方を覚えれば、腰は自然にいちばん先に回転していく」といった身体操法のことである。体重移動(正確には、重心移動と表現されるべきであると思っている)による腰の回転で投球していた。しかし、打者の身体操法に視点を転ずると、欠陥が鮮明に現れていた。先の著書で落合博満が欠陥と指摘していた「上半身と下半身が一緒に動いてしまう」身体操法を多くの打者が体現していたことだ。そのために外角へ投球されたスライダーを、ベース前でワンバウンドするようなボールでさえ空振りする場面が目についた。新聞やテレビの評では、投手の球の切れ、伸びに原因を求めていたようだが、打撃方法に問題があったことは言及されることが少なかった。つまり打撃におけるミート・ポイントが点でしかなく、曲線でミート・ポイントを作れなかった結果である。簡単に言ってしまえば、投手は自分の間合いで投球していたが、打者は自分の間合いで打撃出来なかったともいえる。

ではなぜ、落合博満が指摘するような「腰は自然にいちばん先に回転していく」正しい体の使い方を投手は体現できて、打者は体現できていなかったのか。理にかなった身体操法を行なわなければ投手の場合、肩、肘に負担がかかり、故障を招くからである。また、球威、球速、制球力の上達が期待できないからだ。つまり結果が具体的に検証されるからであり、また身体運用として負担が大きいため、体が自己防衛的に正しい身体操法を求めるからだと思える。だが打者の場合は、打撃は水ものという表現が存在するように、身体操法と打撃能力との間に確固とした因果関係を検証することがむずかしい。くわえて、金属バットの使用が筋肉量信仰を促したこともある。その結果、打撃における身体操法についての検討がなおざりになっている。また打撃法に顕著に体現化されている身体操法の欠陥を、練習量と筋肉量とで補っているのが現状ではないかと思える。高校野球のみならずプロの世界でも、体重移動のもとで、腰が自然にいちばん先に回転していくという正しい体の使い方を体現できず、上半身と下半身とが一緒に動いてしまう選手が目につく。しかし落合の指摘する欠陥を矯正し、「腰は自然にいちばん先に回転していく」正しい体の使い方を体現するためには、どのような練習が必要か、野球関係者から具体的な練習方法について示唆を受ける機会はなかった。先の著書の中で、落合博満も具体的に提示していない。それは彼が天才と呼ばれる所以でもあるからだ。つまり彼は苦労なく正しい体の使い方を体現出来てしまったのである。彼が指摘するような正しい身体操法を体現できない事自体が、彼には理解できないことだった。

豊富な練習量で、結果としてある水準の身体能力を獲得した選手たちが、生存競争の篩にかけられて生き残ったと考えるのが野球界全般の現状である。野球能力の向上を目的として、基本的な身体操法そのものを練習内容のなかに編集しているということを寡聞にして知らない。

今年の夏、県立佐賀北高校野球部が優勝したことは、冷静に吟味検討される必要がある。というのも、練習時間は三時間という限定された環境の中で、練習方法そのものを編集しなおすことで、全国優勝という結果を出したからだ。3時間の練習時間のうち半分はボールを使わない基礎練習に割いていたと、大会後の報道で知った。バット・スウィング、守備ノックなどの練習量で自然発生的に能力の開発をまつのではなく、練習方法を自覚的に編集することで、野球に必要な身体能力を開発する方向へ練習内容の再編集が行なわれた結果である。だから佐賀北高校野球部の指導者において、どのような野球観、身体能力観が試行錯誤の結果獲得されたかは、大いに興味を掻きたてられる事柄でもある。しかしいまは、練習方法の再編集には、背景として野球観、身体能力への認識転換があったことを指摘するだけに止めておきたい。

前回の稿で、記憶を頼りに触れた大阪の浪速高校野球部について、小林敬一良元監督(以下敬称略)の文章を知人が送ってくれた。その文章で、彼が、高校野球界では著名な監督であること、また指導した浪速高校野球部が春の選抜大会に二度出場、PL学園、大阪桐蔭、大阪創価高校といった野球強豪校の犇く大阪地区でつねに上位の成績を収めていることもはじめて知った次第だ。そしてそれらの実績が、他のクラブ活動とのかねあいで、週二回しかグランドが使用できないという劣悪な野球環境の中で獲得されたものであることだ。先の佐賀北高校といい浪速高校といい、選手たちの努力もさることながら、指導力の威力を知る思いである。

紹介した小林敬一良の著わした「私の高校野球」のなかから、身体操法にかんする分野で興味をひく個所を紹介させてもらう。「ライバルと同じ練習をしていたのでは、いつまでたっても勝てない」「例えば教室では腹式呼吸やイメージトレーニングをさえ、グランドでは目を閉じて素振りをさせ、バットの感触やスイングのイメージを体に覚えさせる。ティーバッティングでも目を閉じて打たせる。当然、初めはみんなからだのバランスを崩したり、ティーバッティングでも空振りしたりボールではなくティーの下の方を叩いたり、と散々。でも毎日続けていると、確実にボールを捕らえるようになってきました」「投手にはトランポリンを使ってキャッチボールをさせますが、これは体のバランスを整えるのに最高の効果を発揮し、あれこれ言うよりも、自然にフォームがよくなってきます。要はバランスが大切だ、と言うことなのです」「『何処にもない練習内容で甲子園へ行こう』という気持ちで上を目指して来ました」 これらの発言を読んで、目から鱗、の思いを体験した。彼の身体操法への洞察力に敬服する思いだった。「要はバランスが大切だ」という彼の認識に、万感の思いがこめられているように感じる。この一言に、彼の身体観が、身体能力への認識がまるごと表現されていると思う。 「腰は自然にいちばん先に回転していく」という正しい体の使い方を体現するためには、重心感覚、軸感覚の開発、体得が必要である。現役時代、落合博満が打席の中で、手に持ったバットをホームベース上に横たえる仕草を、体の重心、軸を確認する作業であると解析していた。そして重心、軸の感覚を確認することで腰を割り、重心の移動で腰を回転させて打撃すると理解していたのだった。だから彼が指摘するような正しい体の使いかたが可能になるためには、重心感覚、軸感覚の体得が必要であると考えることが出来たのだった。ただ、いかにして重心感覚、軸感覚の体得方法を開発するか、その練習方法の創造こそが最大の課題になった。 小林敬一良の、要はバランスが大切、という認識は身体操法において正鵠を射ていると思う。想像されることは、彼もバランス能力の開発方法には腐心しただろうということだ。先の文章の中にさまざまに紹介されているトレーニング法は、腐心の跡である。空手など武道の稽古方法なども視野に入れているという。

しかし高校野球、野球界全体といってもいいだろうと思うが、現状は、練習量で、ノックを受ける量、バット・スウィングの量、走り込みといった練習量をかせぐことで、例えば小林敬一良が志向したバランス能力のある身体操法を結果として体得させようとする認識が主流である。しかしそのような認識は偶然性に依拠したもので、学習、指導という視点が欠落しているといわざるをえない。そのために高校の段階でも筋肉増強トレーニングが跋扈しているありさまである。

練習量の持つ価値を私は否定するつもりはない。仄聞するところ、落合博満は、三千回の素振りを毎日実行していた時期をもっていたという。三千回もの素振りを行なうと、終了しても、バットから手が離れなくなるということだ。驚異的ともいえる練習量をこなした結果、彼が正しい身体操法を体得したことは彼の選手としての実績が証明している。しかし、彼が三千回の素振りをノルマとして自分に課していたと彼の体験を理解するべきではないと思う。そこから克己心といった精神論を持ち出すことも論外である。いつだったか、落語家の立川談志師匠が、気がついたら稽古をしていたというのが本物だ、といった主旨のことを話していた。落合博満の場合も、ノルマを自分に課していたといったことではなく、からだが納得のいくまでバットを振っていたら三千回という量になっていたということが正解だと思う。空手を稽古している知人から、入門してから毎日空手の正拳突、前蹴といった基本型を反復練習させられたが、体が練れてくるにつれ、それらの基本型の反復稽古の単調さが精神的に絶えがたくなってきたという。早く組手などの稽古をしたくなった。しかし三、四年無味乾燥と感じられる基本型を辛抱してつづけると、堪えがたく感じた単調な正拳突といった基本型を反復練習することに面白味を感じるという変化が起きた。そしてその端緒は、正則に正拳突の型を稽古した結果、体軸を体感できるようになったことだと体験談を聞いたことがある。

量質転化の法則という言葉がある。量的な変化が質的な変化をもたらし、また質的な変化が量的な変化をもたらすこと、と辞書にある。体のバランス能力が向上してくると、別の表現を使えば、重心感覚、軸感覚が体感、体得されるようになってくると、不思議なことに体が自ずと満足を、納得を求めるようになるという劇的変化がからだに誕生することだ。ノルマとして練習量を設けるのではなく、逆にいかに練習過剰を抑えるかに腐心するような境地に至るという。正則に体を使えるようになると、投球、バットスイング、走塁などに、ある種の快感を体感できるようなってくる。しかしむやみに練習量をこなしても体が劇的に変化するというものではない。あくまで正則な身体操法が前提となることには留意されるべきだ。

これまでスポーツの世界では、バランス能力を開発されるべき能力と認識することはなかった。運動神経がよい、といった表現がさししめすように、天然自然に身につく能力と理解されていたのではないかと思う。 武道の世界で自然体という言葉が使用される機会が多い。バランス能力に優れたからだという理解である。言葉からのイメージでは自然発生的に形成されるものという印象が強いが、言葉のイメージとは裏腹に自然体は創造されるべきものという理解が正解だ。

からだは時代的であり、状況的でありそして生活的である。日々生活の中で環境からの影響受け、歪体化させられている。

体は歪体化されているという認識のもとに、選手個人のバランス能力が個人的生活史の影響を受け、その能力に優劣が存在していることを把握する必要がある。個人差を無視して、野球の技術能力を判断するべきではない。しかし現実は、身体操法の開発という方向ではなく、個人史的に獲得されている身体能力を前提として野球能力などが評価されている。身体操法への認識が現状のまま推移すれば、スポーツをはじめとしたさまざまな身体芸能は貧窮化を免れないだろう。

江戸時代に確立されたとされる武道における型の存在は、自然体を念頭に、基本的な身体操法への関心が誕生させたものではないかと考えられる。各流派の創始者たちは、なぜ、流派固有の型を設け、残したのか。その一つに、武道に必要な体の運用法を創ることと、同時に重心、軸の体得を型の存在意義と想定していたのではないかと思う。型を稽古することに、体を練ることと同時に重心、軸の体得を意図して設定されたと二つの面を理解するべきだ。そして重心、軸の体得がいかに武道において重要であるかの認識が存在していたことだ。重心感覚を、軸の感覚を体得することで、武道、舞踊といった芸能の世界が別次元のものに転換することを江戸時代の武道家、芸能家たちは洞察していたと考えられる。

しかし明治期以降、いつしか型の存在意義が、武道や舞踊といった芸能に必要な体の運用法を創るための方便としか理解されなくなってしまった。正則な型稽古を重ねることで重心感覚、軸の感覚を体得するという意義が欠落してしまったのである。重心感覚、軸感覚の体得によって誕生する世界を体験する機会が希薄となるにつれ、筋肉強化によって物理的力を頼る身体操法が主流となってしまったのではないか。

先に紹介した浪速高校野球部元監督である小林敬一良監督がティーバッティング、キャッチボールの練習に工夫を凝らしていたことは、武道などの芸能における型稽古に同定できるように思える。型稽古を正則に行なうことで、正しい身体操法を体得できる。正しい身体操法、腰から始動すること、重心から、軸から始動することが可能となれば、野球において別次元の投球が、打撃が、走塁が誕生することは間違いない。

心と体とは心身一如の関係にあるという。体が重心感覚、軸の感覚を体感しはじめることはまた、心にも劇的変化が誕生することは間違いない。

比叡山でまた一人の僧侶が千日回峰の修行に入った。