洲之内徹

画廊から(峰村リツ子個展)より

「洲之内さん」峰村リツ子が描いた洲之内徹の人物画・モノクロ

峰村リツ子「洲之内さん」




 この間、こんどのこの個展に並べる絵を決めに峰村さんの家へ行って、峰村さんの出して見せてくれる絵で20点ほど決めたあと、私があちこちアトリエの中を引っ掻きまわしていると、私の顔を描いた4号の絵が出てきた。
「これ、どうしたの、出さないの……」
「だって、ちょっとハンサムに描き過ぎているもの」
 恐れ入りました。私の顔ではなくてもいいということで出すことにしたが、峰村さんの描く顔は、私のこの顔は別としても、みんな、似てないようで変に似ている。
 そこが面白い。そっくりというのでは、たいていの描かれた本人もやりきれないだろうし、見る方もたまらない。息が詰まる。本物だけでも、もうたくさんなのだ。ところが、峰村さんの描く顔は、そこへ、円転滑脱、自由奔放な峰村さんのイメージが、プラス・アルファとして加わっている。それが生きている。それが、描かれた顔を生かしている。
裸婦だって同じだ。
「どうしてこんなところにオッパイがくるの……」
「だって、描いて行くとそうなっちゃうのよ。自分でもわからないわ」
 そうなっちゃうので、こしらえたのではない。だから峰村さんの裸婦は生きている。しかも、その、決してこしらえものにならないというところは、やはり年期というものだろう。

峰村リツ子が描いているヒゲをのばした洲之内徹。(時の美術社刊「峰村リツ子画集」から)

峰村リツ子が描いているヒゲをのばした洲之内徹。(時の美術社刊「峰村リツ子画集」から)

現代画廊「画廊から」より)

[Editor`s Note]

 峰村リツ子は1907年(明治40年)、新潟市沼垂で味噌醸造業を営む裕福な家に生まれた。18歳で太平洋美術研究所に入所。女性の油絵画家の草分けである。フォーヴィスムを想わせるタッチの厚塗りで大胆な描画が知られている。洲之内徹は自らの現代画廊(東京銀座)で、1980(昭和55)年から1986(昭和61)年まで毎年「峰村リツ子展」を開催した。

 野口弥太郎や里見勝蔵、児島善三郎に指導を受けた峰村は、1928(昭和3)年、第3回一九三〇年協会展に『花』を初出品。その後、1934(昭和9)年には三岸節子、桜井浜江、佐川敏子らとグループ「女艸会」を結成し、第1回女艸会展に『風景』を出品する。
 ちょうどその頃に彼女が書いた文章が『峰村リツ子画集』に掲載されている。絵に向き合う表現者としての自身の覚悟のようなものを、多少の気負いも含め次のように記しているのが好感できる。

 「私はこの頃、自分の生活と自分の絵との間にこれっぽちの嘘もない様にとつとめている。対象に対して嫌にけばけばしくしたり、面白くしようが為に故意に歪めたりすることをさける。一のものを十に見せようとするのでなしに、一のものをほんとうに一としてつきつめ、凝視したいのである。」(1934年 美之国 11月号より抜粋)

峰村リツ子「女の肖像 新潟市美術館蔵」(時の美術社刊の画集から)。この作品について、洲之内徹は『人魚を見た人-気まぐれ美術館』所収「万華鏡」で触れている。

峰村リツ子「女の肖像 新潟市美術館蔵」(時の美術社刊の画集から)。この作品について、洲之内徹は『人魚を見た人-気まぐれ美術館』所収「万華鏡」で触れている。

 洲之内徹は『気まぐれ美術館』の連載でも「栗の木川に風船が浮かんだ」(1983年『セザンヌの塗り残し』所収)、「万華鏡」(1985年『人魚を見た人』所収)などに峰村を取り上げ、画風そのままのような彼女の自由でおおらか、かつ繊細な人物像を伝えている。

 1993年(平成5)年2 月、86歳の峰村リツ子は朝日ギャラリー(東京・有楽町)にて自選展を開催。その2年後、1995(平成7)年に逝去したが、現代画廊の「峰村リツ子展」はその後も続けられた。
 なお、2016(平成28)年4月~7月、山口県の「あざかみ美術館」(山陽小野田市の個人美術館)にて「峰村リツ子展」が開催される。