堀井 彰

エルスケン「セーヌ左岸の恋」は唄っていた



 オランダの写真家、エド・ヴァン・デル・エルスケンの処女写真集「セーヌ左岸の恋」(1998年,東京書籍より邦訳出版;大沢類・翻訳 /2003年,エディシオントレヴィルより復刻出版)のなかから写真15点を眼にすることが出来た。写真の存在を教えられてから30年ちかくの時間がたっている。所用で六本木の街を歩いているときに、偶然に作品展開催の告知板を目に。予期せぬ出会いだった。

エルスケンによる雨滴が浮かぶ窓ガラスに映る自分の表情を見つめるる女性の写真

Ed Van Der Elsken「Love on the Left Bank」より

 エルスケンの写真を知ったのは、カメラを悪戯しはじめていた時期のことである。師匠格のカメラマンからエルスケンの写真について、解説を受けていたのだった。しかしなぜか、具体的な作品を目にした記憶はなかった。
 ギャラリーの解説文章を読むと、日本でも幾度か企画展があり、写真集、図録も出版されていたことが記されている。現在まで彼の作品を眼にしていなかったのは、エルスケンの写真との縁が希薄だったと思わざるをえないが一度だけ、彼の写真集を探したことがあった。

 写真機を手にしはじめてから何年かたったころ、機会があってニューヨークに出かけたときに、何軒かの書店、そして写真家エルスケンを発掘したといえるMoMAでも探してみたのだった。しかしこちらの英語力、発音に問題があったせいか、事前に彼の名前のスペルを調べるという準備もしてなかったので、結局エルスケンの写真集は購入できなかった。

 エルスケンとの縁はそれっきり途絶えてしまったのである。しかし、雨滴を浮かせる窓ガラスに映る自分のバストアップの姿をアンニュイな目線で魅入る女性を撮った一枚の写真は傑作だという、写真の手ほどきをしてくれた写真家の言葉はながいあいだ実存主義という言葉とともに記憶に残っていた。

 今回、ながいあいだ記憶に残留していた幻の写真と出会えたわけだが、感涙に咽ぶような体験を味わうことは出来なかった。写真とのあいだに介在する薄いビニールの被膜のようなものの存在が隔靴掻痒といった体験をもたらしているようだった。詩情にあふれ、耽溺したいような物語が写真には感じられた。しかし写真とのあいだに介在する隔靴掻痒感はいかな払拭できなかった。

 一枚の写真と私の気持ちとのあいだに介在する隔絶感はなんだろうか。
 雨滴を浮かばせる窓ガラスに映る自分の姿に見入る女性の表情はメランコリック、虚無的な空気感をもっている。自己陶酔の匂いを色濃く感じるのだった。エルスケンの写真は唄っていると感じられた。自分の感情を謳いあげていると感じさせてしまう。そこに違和感を持ってしまったのではないか。

『セーヌ左岸の恋―エルスケン写真集』(東京書籍 1998年)

エド・ヴァン・デル・エルスケン『セーヌ左岸の恋―エルスケン写真集』(東京書籍 1998年)

 現在、時代のなかで目にできる写真家の作品は、自分の感情を謳いあげるといった牧歌的空気は感じられない。写真家自身、撮影することで謳いあげるという事態を拒んでいるのではないかと思える。唄うことを忌避しているような印象すら受けるのである。この唄うことの困難な時代において、それでも唄えている写真家たちの写真には、歌唱そのものの相対化に耐えている強い意思を感じる。