洲之内徹

「中野坂上のこおろぎ」より

藤巻義夫「隅田川絵巻/第三巻・商科大学向島艇庫より三圍神社まで(部分)の版画画像

藤巻義夫「隅田川絵巻/第三巻・商科大学向島艇庫より三圍神社まで(部分)」



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 絵だけの絵というものの凄さを、やはりこの二月、私は館林の市民会館で、藤巻義夫の「隅田川絵巻」を見て痛感した。痛感しながら、同時に、一種の戦慄を感じた。
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 絵巻はどの部分をとっても、はっきりした視角と、その視角に基づく構図を持っている。しかも、視点は随時移動するが、ひとつの構図は次の構図と有機的に組み合わされ、それぞれが同時に他のそれぞれの要素になり、場面と場面との継ぎ目を全く見せないでいつのまにか場面が変って行く。その不思議さと見事さ。後になって、私は大谷さんと二人で、一日、白鬚橋と吾妻橋の間の両岸を歩いてみることになるが、それは、長命寺の桜餅を食いに行くという目的もあるにはあったが、絵巻の、そのからくりの仕掛けをこの眼で確かめてみようとしたのだった。そして、行ってみて、行ってみなければ気のつかなかったあたらしい仕掛けをいくつか発見した。
 それにしても、藤牧は何のために、どういうつもりで、こういうものを描いたのかという、自然に起ってくる疑問が、私の感嘆の中にまじっている。そう問うてみて、私は戦慄を覚えるのだ。おそらくこの視角の魔術に、誰よりも心を奪われたのは、これを描いた藤牧自身であったろう。そして、ただそのために、誰に見せようというのではなく、彼はこれを描いたとしか思えない。彼は見物のいない手品師である。事実、彼は描き上げた三巻の絵巻を浅草の姉の家に預け、そのまま行方不明になってしまう。今日に至るまで、彼の生死の程は判らない。絵巻はその後館林の親戚の手に渡って仕舞いこまれ、というよりも忘れ去られて、こんどの展覧会まで、いちども陽の目を見ることはなかった。
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 大谷さんと歩いた一日は楽しかった。絵巻には左岸と右岸と両方で描いた風景が入っているが、そのふたとおりの風景が、一本の絵巻の中に交互に現われながら、実際の視角と矛盾せずに自然につながり、更に、そうすることで、二巻と三巻とのどちらの中でも、川は常に右から左へ流れていることになる工夫などに、歩いてみてはじめて気づいたりするのだった。画面が移るに従って、だんだんと家が屋根だけになり、空の部分が広くなってくるところがあるが、あれは、そのとき画家が向島の堤の上を歩いているのである。
 帰りはもう日が暮れかかっていたが、灯の映る山谷堀を渡り、たそがれの空に東武線の鉄橋が聳えて見えるところまで来たとき、突然、私は最後に、いちばん肝腎なことに気がついた。藤牧義夫がもし東北か北陸の生れだったら彼は上野を、千葉生れだったら、同じ隅田川でも両国あたりを描いたのではあるまいか。彼が向島を主にして吾妻橋から白鬚橋の間を描いているのは、彼が館林の生れで、この東武線で東京に入り、また、ここから館林へ帰っていたからだ。そういえば、彼の姉二人も、ひとりは浅草の小島町に、ひとりは向島に住み、彼自身は浅草の神吉町に間借りしていたではないか。
 「わかるなあ」
 私は暗い鉄橋を見上げて呟いた。ここが上州人、藤牧義夫の東京だったのだ。

新潮社刊『帰りたい風景(気まぐれ美術館)』所収

[Editor`s Note]

 版画家藤牧義夫は1911(明治4)年群馬県館林生まれ。16歳で上京、商業図案を独学して銀座の植松図案工房で働きながら版画作を始める。21歳で小野忠重らが興した新版画集団に参加すると次々と作品を発表して頭角を現し、将来を嘱望されていたが、1935(昭和10)年9月2日を境に忽然と失踪。24歳だった。

 以後生死も定かならぬまま、幻の版画家として時代の闇に消えかけていた藤牧義夫が再び注目されるようになるのは、1978(昭和53)年1月、銀座の画廊「かんらん舎」が企画・開催した「早逝の画家たち」展の第4弾として開かれた「藤牧義夫遺作版画展」だった。このとき藤牧の作品をはじめて観て絶賛したのが洲之内徹であり、その洲之内に、藤牧にはここでは展示できない全長60メートルに及ぶ長尺の『隅田川絵巻』があることを教えるのが、「かんらん舎」オーナーの大谷芳久氏である。

 上記「中野坂上のこおろぎ」よりの引用部分は、その大谷芳久氏と連れだって『隅田川絵巻』の実景を検分しながら、それを描いた藤牧義夫の視覚に迫るくだりで、いつになく洲之内の文に高揚感があるように思われる。

 《気まぐれ美術館》の連載で洲之内は、再三にわたって藤牧義夫を取り上げている。当人も予期せぬまま絶筆となった 「藝術新潮1987年11月号」掲載の第165回も『隅田川絵巻』であったし、その前回もやはり藤牧の、『赤陽』だった。
 東京国立近代美術館には藤牧作品55点が大谷氏の尽力でコレクション収蔵されている。『赤陽』もその中に含まれているが、この木版には少し構図や刷りの異なる2点の同じ作品が出回っていて、贋作、版木の改竄、捏造も疑われた。その3つの『赤陽』の謎を洲之内は究めようとするのだが、このとき既に、死が忍び寄り気力が下降していたのか途中で投げ出し、先送りしている。

 その謎を10年の歳月をかけて探求・精査・考証したのが大谷芳久氏である。その詳細は500ページに及ぶ『藤牧義夫 眞僞』(2010年;学藝書院)に纏められた。その経緯や藤牧義夫をめぐる謎について、2014(平成26)年のヨコハマトリエンナーレの企画に関連したインタビューの中で大谷氏自身が語っている
 なお、『藤牧義夫 眞僞』は完売・絶版となっているようだが、その概要はこちらのブログから触れることができる。