ディシー沢板

「博士と彼女のセオリー (The theory of everything)」=意外にも・・・ 

「博士と彼女のセオリー」タイトル画面 (C) UNIVERSAL PICTURES

(C) UNIVERSAL PICTURES



 本サイトの館主氏とは約束がある。映画の話を書かなければならない。しかし、このところ私の周りでは色々な事があって、住む場所も変わり、とうとう名古屋シネマテークにも行けず仕舞いとなった。あの映画館で映画を観て、映画館の雰囲気や余韻を書こうと思ったがそれもできない。
 どうしようかと考えていると、意外にも妻が観たい映画があるという。こちらのバタバタも少し落ち着いた5月29日、妻に誘われるままに『博士と彼女のセオリー』を観に行った。本年度のアカデミー賞有力候補。「感動に心を奪われる、世界でひとつだけのラブストーリー、すべてが凝縮された輝かしい一作。」こういうコピーは観る気を失せさせるが、妻の後ろに従った。

 ストーリーは“意外なもの”であった。心揺さぶられるラブストーリーではなく、現実的なほろ苦ラブストーリー。妻からの事前情報は車椅子の天才物理学者ホーキング博士とその奥さんの話というだけであった為、一途な愛の物語なのかと思っていたら、豈図らんや英国のキリスト教社会を遠影に持ちながら、実生活に添ってしっかり生きていく家族の物語であった。

 “意外なもの”の中身を書く前に、“意外”という言葉の意味を手持ちの辞書で調べてみる。映画とは関係ないが、先日『舟を編む』(三浦しをん)を読んでから、少し言葉の多面性が気になっているのだ。意外=考えている状態と非常に違っていること。また、そのさま。思いのほか。案外。ついでにセオリーは理論・学説・意見・見解・持論・仮定・理屈。

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 さて、“意外なものの中身”に戻る。映画「博士と彼女のセオリー(The theory of everything)」(監督:ジェームズ・マーシュ)はALS(筋萎縮性側索硬化症)のホークング博士(エディ・レッドメイン)とその彼女(妻)のジェーン(フェリシティ・ジョーンズ)が、出会い、発病し、余命宣告を受けて、結婚し、未来への歩み出す・・・彼らの実話を基に描かれている(原作:ジェーン・ホーキング)。必死に生き、愛し、子供も生まれる。博士はハンディキャップにもめげず、持ち前の明るさと発想力で独自の理論を作り上げる。妻はリミットが宣告された命を生きる夫を支え、前向きに生きる。彼女がいなければ博士は既にこの世に存在していなかっただろう。そんなヒューマンラブストーリーは“意外”に呆気なく崩れる。平然と意図的に、博士も妻も浮気をする。そして最後は離婚(今でも友人同士らしいが)してしまう。
 東洋的価値観? 価値観の多様性? 厳格な宗教は行く手が閉ざされ、許容力のある(いい加減な、含みのある)宗教は拡大するとの学説ではないが、この映画にも程良くいい加減の不調和な意外性が広がりとして現われる。

 科学(物理学)と宗教とは対立する歴史がある。科学を受け入れられない宗教は自己矛盾を抱え、それらをどう解釈していくかが課題となる。人類の誕生・進化論・宇宙の始まり・同性愛・不倫・・・科学的事実、社会的通念との齟齬。ところが映画では科学する博士の側も信仰する家族の側も、寛容に許容する。しかも唐突に。博士は言う「宇宙創造の理論において、もはや神の居場所はない」とも、「神の概念に触れずに宇宙のはじまりを論ずるのは難しい。」とも。

 博士は妻の浮気を公認しているのか? 嫉妬しているのか? 妻は博士を愛しているのか? 自分を愛しているのか? 背叛する気持ちが複雑な要素を許容しながら、思いのほか整然としたまま進んでいく。この映画の題名は「私たちの見解」(こんなセンスのない題名はないと思うが)ではどうなのだろう?The theory of everythingという原題はもっと工夫された和題があっても良かったかもしれない。コピーは「愛する二人の価値観の多様化とそれを受け入れる英国社会のヒューマンストーリー。」?

 映画の最後に「今という時間を生きる意味」との言葉が出てくる。生きる時間と戦う博士、博士のそれをも背負い且つ自分の生き方を見つめる妻。ありふれた熱愛ストーリーよりも、今を純粋に生きることを示している。彼らの心を寛容に許容することで秩序から飛び出して、今という時間を生きようとするおおらかな強さが見えた。
“意外にも”私の周りで起こった色々な事への私の答えが見つけられるかも?