堀井 彰

好きこそものの上手なれ -練習方法における創意工夫こそ上達の要である-

全国高校野球選手権大会の夏がやってきた。

高校野球の世界は、野球部部員への経済的援助を巡ってその賛否で騒々しい。とくに私立学校における野球特待生制度の存立が市場原理とアマチュアリズムとの間で大揺れしているが、問題は就職活動の一環と割りきれば済むことではないか。野球強豪校といわれる私立学校へ進学する高校生のほとんどは、将来、プロ野球へ進むことを念頭においている。弱小の公立高校野球部に在籍する部員たちのなかにも、卒業後すぐにプロ野球界へ進めなくても、大学野球または社会人野球で実績を積み、将来はプロでという希望を持っている部員たちが多くいる。高校野球に在籍する生徒たちは、実現の可能性はべつにして、プロ野球を夢見て日々練習に励んでいる。私立高校においても学校経営の戦略の一環として野球部の活動を位置づけ、多額の予算を組んでいることも事実である。学校経営という視点からは当然の企業活動であるといえる。  だから今回の高校野球における金銭にまつわる事件は、特待生制度に象徴される出来事は、アマチュアリズムの存在意義を問うことに本質があるのではないかと思う。アマチュアリズムという理念をいかに生かすか、それとも存在意義なしということで廃棄されるべきかの問題に過ぎないと思われる。

高校野球の部活に個人的に交渉を持つようになって、今年で四回目の全国高校野球選手権の夏を迎える。高校野球ではどのような練習をしているのだろうかという興味で、公立高校野球部の練習を見学するようになったのが、ことの始まりであった。日々の練習を、そして週末に行なわれる他校との練習試合を見学するうちに、高校野球がもっている魅力そして抱える課題などを知るようになった。

公立高校野球部の部員たちと個人的に交渉を持つようになると、私立の野球強豪校と公立高校野球部が置かれている環境の落差に驚かされた。見学している野球部の練習は、陸上部そしてサッカー部とグランドを共用している。サッカー部が練習する時は、グランドの隅で野球部は練習せざるをえない。陸上部が練習するときには、野球部やサッカー部はグランドが使用できない。

一方、野球強豪校の私立高校では、野球専用のグランド、室内練習場や夜間練習のための照明施設などが完備されているのが一般的である。公立高校野球部の劣悪な練習環境を知るにつれ、つい判官贔屓となり、応援にも力が入ってしまう。

このように練習環境に大きな格差があると同時に、部員たちの体格にも優劣の差が歴然と存在している。私立の野球強豪校へ進学してくる生徒たちは、小学生、中学生時代にリトル・リーグなどのチームに所属して野球を経験してきている部員たちが多数を占めている。このような現実、私立の野球強豪校へ進学したいという生徒たちの夢は、プロ野球で活躍したいという欲求があるかぎり当然の進路である。当然の、自然な欲求を古色蒼然とした狭隘なアマチュアリズムといった理念で拘束することは不可能である。それより生徒の可能性を健全に実現できるような制度の構築が求められているのではないだろうか。そのためには可能なかぎりの情報開示が必要である。

知人の子供に野球少年の兄弟がいた。二人とも小学生の時代からリトル・リーグに所属して野球をしていた。高校進学に際し、兄は私立の野球強豪校へ進学した。兄が進学した高校の野球部は、部員数百名を超え、三分の一は野球特待生であった。三年間、兄は控え選手として公式試合には一度も出場することはなかった。兄の野球生活を身近に見ていた弟は、公立高校へ進学した。夏の全国高校野球大会予選では三回戦へ進出したのが最高だったが、一年生からレギュラーとして公式試合に出場し、三年間の野球生活を終えた。兄弟、どちらの野球生活が正解だったのか、誰も判断はできないだろう。が、少なくとも兄の野球生活を見聞することが弟の選択を促したことは間違いない。

個人的に交渉を持つ公立高校野球部が私立の野球強豪校と練習試合を行なうことはほとんどない。練習にならないほどに実力差があるからだ。公立高校同士の練習試合がほとんどである。しかし野球の実力に大差がある野球部ではあるが、その練習内容には大差がない。もちろん練習環境には優劣があるが、練習メニューには特別な相違は見られない。そのことが練習や試合を見学しながら、不満に感じるとこころである。

なるべく機会を作って私立の野球強豪校の練習を見学するようにしているが、たしかに部員たちの体格のよさには驚かされる。それもレギュラー陣の部員にはプロといってもいいような体格の持主もいる。しかし練習内容には私立強豪校も公立高校も大差ない。打撃練習、守備練習、連携プレーとどこの高校野球部でも行なっているものである。もちろん私立強豪校では監督の他にスタッフ陣が揃い、打撃、守備などの専門的な技術指導なども行なわれている。一方、公立高校野球部では監督が一人で練習の面倒を見ているのが一般的である。くわえて監督を務める教師は、野球は好きだが、専門的な知見は持っていないという人間も珍しくはない。それでもなお、公立高校野球部の活躍を期待するのである。先ほども紹介したが、野球部部員の体格、キャリア、練習場などの施設や指導スタッフなど練習環境も、私立強豪校に劣ってはいるが、だからこそ活躍できる可能性を持っているのではないかと、妄想に近い考えを抱いているのである。

野球が好きだという気持ちには、野球部部員たちに私学も公立も優劣はないと思う。その野球が好きだということを出発点として、野球が上手になりたいという欲求をいかに具現化するかという一点に集中した練習がなされるなら、妄想が具体化する可能性も見えてくるというものだ。

先ほども指摘したように、練習量と練習環境では、私立強豪校と公立高校とでは雲泥の差がある。そして四年間、公立高校の練習と私学の練習とを見学しながら、其の練習メニューに大差ないことが気にかかっていた。差があるのは練習量であり、また部員たちの練習へのモチベーションの強弱であると感じていた。そしてそれらの負の条件を克服するのが練習内容、練習メニューなどにおける創意工夫ではないかと思うのだ。野球における投球、打撃、守備そして走塁に必要な基本的な身体操法の練習に関心を向け、練習時間を集中するべきであると考える。

数年前に、NHKの番組だったと思うが、東京の私立の進学校として有名な桐朋高校のバスケット部の活動が紹介された。進学校のためにバスケット部の練習時間は一時間二十分と制約され、その練習時間内に充実した成果を誕生させるためにどのような練習方法が必要であるか、ということが発端であったという。そこで採用されたのが古武術に由来を持つ身体操法で、走る、パスするといった基本練習に採用することであったという。結果として全国大会進出の実力を養成できたという。この桐朋高校の活動内容が報道されると、全国から見学が殺到したという。桐朋高校が創出した成果は、古武術由来の身体操法を練習メニューに採用する、しないはさておき、練習内容、メニューに創意工夫を凝らしたことに意義があったのではないかと思う。公立高校においては練習環境や身体的な負の条件を克服し、部員たちの「上達したい」という欲求を具現化するための道は、練習量の不足、劣る体力を基本的な身体操法、技能の練習に練習を特化することで具体化できるのではないかと考える必要があると思う。

夏の甲子園の季節となると、新聞、テレビなどに、特色のある練習を試みている学校が紹介されることがある。ただ残念なことに、あくまで散発的、部分的な試みの印象を免れない。練習メニュー、方法の変更は野球観、身体観の改変を必然的に要請しているからである。練習メニューや方法の変更は一種の冒険と理解される。新規に、練習メニューを変更また方法を改変しようとすると、具体的な実績が存在しないだけ危惧感だけが強くなる。このことは部員個人の技術を矯正するときにも発生する不安でもあるが、技能向上を目指した上達のための矯正であると理解しながらも、具体的成果が確認しにくいために不安、危惧感が先立ってしまう。そのために現状維持志向が強くなってしまう。

くわえて野球部監督の仕事が激務であることだ。担当教科の仕事を務めながら、教科終了後に野球部の練習に従事する。週末は他校との練習試合に随行するなど、年末年始以外にはほとんど休日を取ることは不可能な勤務状態である。そのためにか、公立高校野球部で監督を担う教師の数が減少しているという。公立高校野球部監督という職務は、もはや野球が好きだ、という個人的嗜好の域を逸脱し私生活を犠牲にして成り立つ過重な職務となっているのが現状である。だからこそ、練習に創意工夫を凝らして、私立強豪校との間にある練習量、体力などの量的格差を埋めて、対等に試合できる実力を培って欲しいのである。いくら野球が好きとはいっても、打撃や守備などにおいてわずかであっても向上が実感できなくては、また練習試合ですら勝利の味を味わえなくては、向上心すら芽生える余地は生まれないであろう。野球を練習することの教育的価値は具体化されないであろう。

練習メニュー、方法の吟味そして改善こそが、走る、投げる、打つそして捕るといった野球の技能に共通する基本的身体操法の練習に、練習の比重を移すことは、練習環境や体格といった条件に劣る公立高校野球部にとって、試してみる価値のある試みであると思える。その思考の裏づけとして、打撃の専門家たるプロ野球の選手として輝かしい実績を残した落合博満の打撃理論と出会ったこと、得心がいったのである。練習方法、内容の改善によって、結果は大化けする可能性があるということである。

現在中日球団の監督を務める落合博満の著書「落合博満の超野球学-バッティングの理屈①」を読んだ。バットの振りかたについて知合いの高校生から質問されたからだった。落合博満については現役時代から、神主打法と俗にいわれた、打席に入ったときにバットを神主が杓を持つように体の前でのばす仕草に関心を持っていた。その仕草にどのような意味があるか、感じるところがあったのである。彼の打撃についての著書を読んだときに、打席でする彼の仕草の意味に得心がいったのである。想像していたとおりであった。そしてその得心は、現在アメリカのメジャーで活躍するイチローの打撃にも敷衍できる身体操法であることも理解できた。

「理想的なスイングを追い求めよう」の項目のなかでバットのスイングについて落合博満は次ぎのように解説している。

「強い打球を遠くへ飛ばすためには、できるだけ捕手寄りに体をひねることがポイントになる。ただし、下半身で体をひねって軸足に体重を載せていく時、上半身も一緒にひねってしまったのでは、投手の投げてくるボールが視界から消えてしまう。……肝心なボールをインパクトするという動作が正確にできない。そこで、顔や肩の位置を動かさず、しかしバットを握った両腕をトップの位置に入れる形を作らなければならない。……下半身はできるだけ捕手寄りにひねって回転のパワーを蓄えるが、上半身はとくに顔と両肩を動かさずに止めておく意識を持ち、バットを持った両腕はトップの位置に入れる。上半身と下半身には反対の動きをさせながら、バットを持った腕にはボールを捕らえる準備をさせるのだ。続いて、トップの位置からインパクトにかけて、下半身は、捕手寄りにひねって蓄えたパワーを活用して、絞った手ぬぐいをほどくように、今度は投手寄りに回転させていく。しかし、上半身はボールを(目で)補足しながら、下半身につられて回転しないように我慢する。そして、バットを持った両腕でボールをインパクトする。ここでも、上半身と下半身には反対の動きをさせながら、腕を使ってボールを捕らえるわけだ」

長い引用になってしまったが、落合博満がここに記述している内容は、メジャーリーグで活躍しているイチローの打撃フォームをテレビ番組の映像で見る時に、落合博満が記述する身体操法と共通した構造を体現化していると得心されたのである。落合博満が打席に立ち、ベース上にバットをのばす仕草も、イチローがウエイティング・サークルでおこなう四股立ちになっての肩入れも、共通の身体操法を持っておこなわれていると理解できたのである。

ところが落合博満は著書のなかで、嘆くだけである。「最近の若い選手に……簡単にいえば、上半身と下半身が一緒に動いてしまう選手が目立つのだ」と。彼が指摘しているのはプロ野球で活躍する選手たちのことである。問題は、残念なことに、どうしたら上半身と下半身とが反対方向の動きを体現できるかについて落合博満が述べていないことである。彼には当然の、あたりまえの身体操法であるのだろうと思う。逆に、どうしてできないのだろうと思っての述懐だったと思う。別の個所でも彼は同種類の理解を示している。「正しい体の使い方を覚えれば、腰は自然にいちばん先に回転していく」と。

しかし高校野球の試合やテレビ放送で観戦するプロ野球の試合においても、上半身と下半身との動きに遊びがなく、落合博満が指摘するように「簡単にいえば、上半身と下半身が一緒に動いてしまう」選手たちが多数を占めていることである。また、腰は自然にいちばん先に回転していく」という彼の指摘を体現できない選手が圧倒的多数を占めているのが現実である。プロの世界においても困難な身体操法といえる。ただ、打撃において、落合博満が指摘する身体操法が要であることに無自覚なだけであるということだ。 落合博満が指摘する身体操法は基本中の基本であると思う。だがその身体操法を体現できるための練習を目にすることは稀である。これもテレビ報道の映像で知ったことだが、大阪の浪速高校野球部で、たとえばバランスボードを使って選手の平衡感覚の体得を目的とした練習風景が紹介されていた。いくつかの練習場面を見ながら、野球部監督の意図が了解されたことを記憶している。

一流とされる選手たちはおしなべて落合博満の指摘する身体操法を体現してプレーしている。上半身と下半身との間に遊びという間が持てなくては、いかに運動能力に優れたプロ野球の選手といえども簡単に変化球を投げられ間合いを崩され打ち取られてしまう。

ここで落合博満が指摘しているような身体操法ができなくては、バット・スイングの量をいかにこなしても、おのずと限界が見えてしまう。どうしたら、落合博満が指摘するような、上半身と下半身との動きに遊びのある身体操法が体現できるか、練習方法を追求するべきであると思う。漫然と量を稼ぐ練習より効果があることは間違いない。野球に必要な基本的な身体操法を、自覚的に、意識的にそのような基本的身体操法を培う方法論の確立が必要であると思う。というより、その上達過程の構造を認識することが、部活として野球をおこなうことの教育的な意義ではないかと思う。

企業戦略として、勝負優先の宿命を背負っている私立高校野球ではなく、勝負優先ではなく、部活動としての野球に教育的意義を賦与している公立高校野球にこそ、身体操法を中心とした練習方法の革命を期待したいのである。そのことによって、できる人はより以上に、できない人もできるようにという上達構造の創造が可能となる