檜山 東樹

高良眞木の”径(みち)”と”日月(じつげつ)”

高良眞木『日月』1956年 油彩画 キャンバス(平塚市美術館蔵)

高良眞木『日月』1956年 油彩画 キャンバス(平塚市美術館蔵)



 平成23(2011)年に80歳で亡くなった高良眞木は、油彩画「土」が洲之内コレクションに入っていて、昭和46(1971)年、48(1973)年には現代画廊で個展も開かれている。だからなのか、彼女のことを洲之内徹によって見出された画家と言う人も多いし、実際、洲之内は高良の画才を高く評価していた。
 2月初旬ののことだが、その高良の初期作品を平塚市美術館で観た。同館の特集展「冬の所蔵品展-太陽と月と星をめぐる絵画」である。

 平塚市美術館は人口26万人の街の公営美術館だが、湘南という地域特性を建築デザインに表現したなかなか素敵な施設である。箱が良いだけでなく、横浜や東京といった至近大都市のミュージアムに引けをとらない質の高い企画展や、個性的なワークショップを開催していて注目している。
 ここは美術品の収集・所蔵にも熱心で、大正・昭和期~現代の日本人アーチストの作品を800点近く所蔵している。高良眞木の作品も数十点あり、今回はその中から『日月(じつげつ)』、『丘の径』、『丘の径 百日草』、『赤い木 黒い木』、『三本の木』の、特集展のテーマに沿った5点が展示されていた。

 いずれもシュールレアリズムの描画表現を感じさせる幻想的な風景画で、若き日の彼女が受けた時代の風を思わせる。高良眞木は戦後復興と民主化の真っ只中で青春期を送っている。森田療法による精神神経医家として高名で詩人でもあった高良武久を父に、戦後初の選挙で参議院議員となった女性の一人である高良とみを母として自由学園から東京女子大に進むが、1949(昭和24)年に米国のリベラルアーツの名門・アーラム大(Earlham College)に転入学して卒業し、その後パリの美術学校グランド・ショミエール(L’académie de la Grande Chaumière) で2年間デッサンを学んだ。展示5点は帰国直後から描いた画家初期の作品で、後年の高良眞木がよく描いた花や樹木などを写実的に描いたものとは大分違っている。

 印象的だったのは絵の具の載せ方。丁寧で繊細に塗られた色が発する光沢は漆工芸を思わせるようで美しい。と同時に、キャンバス全体に張り詰めたように生真面目な空気が覆っているのが感じられ、画家のピュアな心性と気負いがまっすぐに表出されているのを思った。ただ、具象的だがいかにもシュールな、夢のイメージのようなそれらの情景には強い孤愁が漂う。

高良眞木の初期油彩画『丘の径 百日草』(1957年頃;平塚市美術館蔵)

高良眞木『丘の径 百日草』1957年頃 油彩 キャンバス(平塚市美術館蔵)

 地平を照らす日輪と並んで浮かぶ下弦の月は有明のそれだろうか、夜と朝が交錯する一刻の赤い大地に最後の一葉を散らして屹立する一木、あるいは、同じく幹と枝を剥き出しに晒して光る赤と黒の木。丘と言うには高く、彼方まで山脈のように重なる青山を辿っていく一筋の径も、日月が照らす赤い地平を越えてつづいていると思われる一路も、独り歩む無援の道のようだ。だが、道筋のところどころには金箔を散らしたような光彩があって、希望ある旅路のようにも思える。それは画家自身が抱えていた軛との葛藤--自由で創造的な生、自立への希求--が投影されたものなのかもしれない。

 その頃の高良眞木が抱えていた葛藤については、早大大学院教授の新保敦子の研究や眞木の妹で詩人の高良留美子が『高良眞木画集』に寄せた一文からも察知される。
 20歳代の5年に及ぶ海外留学生活は、下の妹の死がなければ帰国することもなくつづいていたかも知れない。新保のインタビューに「母親から一番遠いところへ行きたかった」と語っている彼女は、帰国後も母親から逃れるように家を出ている。

 高良眞木の母・高良とみは、昭和の女性史、とりわけ戦後の女性解放運動史、あるいは反戦・非戦運動史において外せない人物として知られている。明治生まれの女性としては珍しく米国コロムビア大、ジョンズ・ホプキンス大で学び、博士号(
心理学)を取得している。アメリカ流の自由・平等主義の影響を強く受けていたようで、その活躍は戦後復興間もない時期から大胆、先進的で世間の注目を惹くこと多かった。しかも、政治的にもタフで苛烈、時に吉田茂や政府、米国を苛立たせた。
 そんな苛烈さは家庭でも同様であったようだ。母親としてはかなり変わった人であったようで、その社会的存在の大きさと相まって、眞木以下3人の娘たちのとっては大きな圧力を及ぼし、なまやさしい関係ではなかったという。「姉と私は、・・・・まるで孤児のように生きていた」と妹の留美子が記しているが、若い眞木の絵の孤立無援を思わせる情景はそういうことが表現のうしろにあるだろうし、母の圧力が及ばない彼方に自らの光彩を求め、そこへ向かおうと意志したものとも思われる。

 画題の「日月(じつげつ)」という言葉は、文字通り太陽と月を指ことから歳月、あるいは人生を意味するが、”真理と正義”という意もある。キャンバスに向かい描く高良眞木は母とは異なるところの”真理と正義”を求めたのかも知れない。そしておそらくは、母とはもっとも遠いところへ向かい、自立的に生きることを模索したのであろうし、それが絵を描く道であったのだろうと思う。
 だが、『絵の中の散歩』や『気まぐれ美術館』所収の「小田原と真鶴の間」などで洲之内徹が半ば嘆息して記しているように、彼女は画家としての自意識が強くはなかったようだ。画業で光彩を放つ以上に社会運動家、とりわけ日中友好協会の中心的な活動家としてあることの方に傾いていた。そこには母とは位相も質も違う平和・女性運動家で童話作家の浜田糸衛との出会いが、決定的にあったことは否めないにせよ、言うまでもなくそれは、逃れ自由でありたかった母・高良とみが戦後に地平を開いた道につながっている。

 10年ほど前、まだお元気だった高良眞木さんに会ったたことがある。神奈川県の真鶴町に彼女が建てて開設した「真鶴共生舎<木の家>」という西欧型のグループホームを見学させていただくために、建築家の仲間と伺ったのだった。
 迎えてくれた眞木さんは意外にもと言っては失礼だが、とても品のよい老婦人という印象。終始穏やかで出過ぎることなく、しかし、言葉を選びながらまっすぐに話す方だった。

 高台になっている真鶴半島の西側、尻掛海岸を望む敷地2000坪の傾斜地。そこには以前から高良家の別荘があったところで、海に向かって広がる敷地内には、みかんやレモンなどの果樹や種の異なる桜の木のほかにさまざまな草木が繁る、ちょっとした森である。多様な花々が成っていて小さな畑もある。ただ、高木が多いので磯は見えないのが残念だが潮風はかんじられ、まさに自然の中である。

 画家・高良眞木は帰国後も母とみとは意識的に距離をとり、20歳代後半からここに暮らすようになる。そして、30歳頃を境に描く絵がそれまでとは変わり、ここにある自然や土に根ざす木や草花、あるいは海に観察的な眼差しを向けた写実的な静物画や風景画を、専ら描くようになった。
 ちなみに、洲之内徹との親交もこの頃から始まったようだが、昭和62(1987)年10月21日、洲之内は現代画廊での高良眞木展の出展作品の選定と撮影のためにここ真鶴高良邸を訪れ、終電で帰宅した翌朝に倒れ入院。意識不明のまま28日に不帰の人となった。つまり、洲之内が最期に眼にした絵と画家が高良眞木だったのだ。

 その別邸から少し下りたところに、オランダに拠点を置く建築家・吉良森子の設計になる<木の家>が建つ。全10室の独立性の高いプライベートルーム、共用のダイニング・キッチンに浴室やランドリーも備え、文字通り無垢の白木をふんだんに用いた北欧的デザインの、シンプルだが合理的な共生住宅には、ゆったりした時間と心和む空気が流れていた。広々としたリビングルームは、海からの風と光を受け、居住者が集って語らうこともできるし、外れて独り物想いすることもできるように、調度のレイアウトも配慮されている。

 自然に即した自由な心で、自立した個人として創造的に生きようとする人たちが、それぞれに能力を出し合って共生・共助して暮らす場、というのがこの「真鶴共生舎<木の家>」の趣旨だ。自らと同じような生き方をしてきた高齢女性が、孤立することなく老後を生きるためのグループホームということのようだが、必ずしもも高齢者専用の施設でもないのではないか。むしろ、近年都市部の若い層に人気のシェア・ハウスにも通じる、新たなコミュニティづくりに近いと思ったのだ。だとすれば、それは言うまでもなく、生き方多様化時代を見据えた先見的な社会運動でもある。
 孤独に耐えて、無援で屹立する自らの「径(みち)」を、キャンバスにとどまらぬ「日月(じつげつ)」に眼差しを向けて歩いてきた高良眞木が老境に達して至ったのが、この「共生」という地平だったということではないのだろうか・・・。

 <木の家>のリビングからベランダに出ると、潮風に揺れながら目の前にユーカリの木が2本、いくつもの枝を延ばしていて、画集で見た「赤い木 黒い木」や洲之内が著書に取り上げいている「樹」の絵を想い起こした。
 それを伝えると眞木さんは、相変わらず上品な笑顔で、「自然のあるがままをよく見ることで、この世に<物を存在させる力>を表現したい」のだと言われた。今も記憶に残っている。

高良眞木『樹』の油彩画

『樹』1966年 油彩 キャンバス(求龍堂『高良眞木画集』より)

「真鶴共生舎<木の家>」の入口と北側外観の画像

「真鶴共生舎<木の家>」の入口と北側外観