檜山 東樹

我が青春の『網走番外地』

現在の網走刑務所正門

「その名も網走番外地」こと、現在の網走刑務所正門(日本経済新聞「日本の近代遺産50選」2008年9月25日夕刊より)。旧網走監獄の煉瓦門デザインを復元している。



 『網走番外地』はもともと、伊藤一という人物が網走刑務所での服役体験をもとに著した実録的な小説で、1959年に日活が映画化(松尾昭典監督)した。
日本映画データベースによると、1965年に東映が高倉健主演で製作した同名映画(石井輝男監督)は、この日活作品の「リメイク」とされている。だが率直なところ「リメイク」というよりは、原作のタイトルと舞台設定を拝借しただけの、同名異人ならぬ“同名異作”と言うべきだろう。

 何せ原作の『網走番外地』は、傷害事件を起こして服役するやくざ者と医者のお嬢さんの道ならぬ純愛物語で、日活はそれを忠実に映画化し小高雄二と浅丘ルリ子が主演した。一方、監督石井輝男が脚本も書いた東映のそれは、アメリカ映画の『手錠のまゝの脱獄』(1958年;スタンリー・クレイマー監督,トニー・カーチス,シドニー・ポワチエ主演)をアダプテーションした、純愛どころか色気も女っ気もない、男だらけの脱獄映画、雪上アクションシネマである。

『網走番外地』第1作のポスター

『網走番外地』第1作のポスター©1965東映株式会社

 しかもこれ、当時の東映が太秦時代劇から転じて主力の表番組に据えていた任侠やくざ映画、『関東流れ者』(監督・小沢茂弘、企画・俊藤滋浩)の添え物映画だったのだ。
 当時の娯楽的商業映画の新作公開は、ニュース、予告編に本編二本立てで3時間前後のプログラムで興行されるのが通例で、本編の一本は予算も時間もかけ客の呼べるスターを主役に据えた目玉作品や巨匠監督の大作、もう一本はその前座的な添え物という組み合わせが一般的だった。この添え物映画は概ね低予算で短期間に早撮りされた、肩の凝らない、あるいはチープな娯楽映画というのが定番で、そうした添え物プログラムピクチャーの中に、後にB級映画といわれて再評価されるような作品群がある。
 そう。高倉健をスターダムに押し上げる映画シリーズの一つとなった『網走番外地』は、いわゆるB級映画として世に出たのだ。しかも、前年の東京オリンピックを機にテレビでもカラー放送が本格化した時代、もちろん映画でもカラーフィルム撮影による“総天然色”が主流になりつつあった時代に、低予算ゆえのコストカットでモノクロ作品で。

 15~16歳。田舎の高校生だった僕や悪友たちは、このモノクロ映画に熱狂した。
 冬の網走刑務所。雑居房内を大乱闘や雪原のカーチェイスならぬトロッコチェイスは痛快で、蒸気機関車(!)が迫り来る鉄路に臥せて車輪で手錠を切断するシーンには、すっかり感情移入して冷や冷やしたものだ。
 何より主人公・橘真一の、溢れる男気と反骨心、ぶっきらぼうな物言いと竹を割ったような真っ直ぐさのいっぽうで、二枚目半的な茶目っぷりも見せるキャラクターはアナーキーで、思春期の反抗的少年たちの心を惹きつけた。少し上の世代のカリスマ・スターは石原裕次郎だったが、僕らにとってはこの時から決定的に高倉健であった。

 後に、誰もが「日本を代表する映画俳優」として認知し、“健さん”と敬意と親しみを込めて呼ぶようになる稀代の銀幕スター・高倉健。多くの人が記憶する彼のキャラクターは、いつも「寡黙」で「不器用」、「ストイック」に筋を通して生きる「男」で、それが彼自身の象徴的イメージでもあった。
 だが、それは彼が東映の看板スターとなっていく時期のメインプログラムであったマキノ雅弘の『日本侠客伝』シリーズ『昭和残侠伝』シリーズの、たとえば辰巳の新吉や花田秀次郎といった、近代任侠浪漫を体現するキャラクターに重ねて作られ敷衍されていったものだ。

橘真一に扮した高倉健

橘真一の”健さん”。(『網走番外地 北海編』より)©1965東映株式会社

 『網走番外地』の橘真一という無頼のキャラクターは、それとはちょっと違う。
 唐獅子牡丹のもんもんは背負っていないものの、同じく義侠心が強いために網走刑務所を出たり入ったりしている。だから確かに「不器用」だが、特に「寡黙」でもなく、同房の田中邦衛や由利徹、砂塚秀夫、佐山俊二ら、とぼけた刑務所仲間と乱痴気騒ぎしおどけてみせる。“ストイック”な侠客ではなく、純で陽気なはみ出しヤクザの橘真一。

 このキャラクターには高倉健の素のままの個性も投影されいているようで、親近感と実在感があり、魅力的だった。唐獅子牡丹を背負って「死んでもらいます!」と殴り込む秀次郎ももちろんカッコよかったけれど、橘真一こそが我らがヒーローの”健さん”であり、不良少年たちの鏡でもあったのだ。

『宮本武蔵』(東映ビデオ)パッケージ

『宮本武蔵』(東映ビデオ)

 映画俳優としての高倉健はそれ以前から見知っていた。デビュー作の『電光空手打ち』こそ観ていないが、一連の東映ギャング映画シリーズにも出ていたし、サラリーマン小説の魁で当時の流行作家だった源氏鶏太原作の『東京丸の内』(1962年)なる映画では、熱血サラリーマンを演っていたのも覚えている。苦み走った濃いマスクの二枚目で、背が高く、いかにも当時の定型的映画スターという印象があるだけだで、俳優としてもキャラクター的にもあまりインパクトを感じるところはなかった。しいて言えば、眼にやや険のある感じが、内田吐夢監督・中村(萬屋)錦之助主演の名作『宮本武蔵』での佐々木小次郎の非情さに似合っていると思ったが、どうもピンと来るところはなかった。

 だが、僕らと同様に、橘真一にぞっこん魅了された者たちが多くいたのだろう。添え物B級映画でしかなかった『網走番外地』は、製作側の想定に反して当たった。となれば直ちにシリーズ化して、任侠浪漫映画と二枚看板にする無節操さはさすが東映。1967年までのたった3年間に、実に10本の『網走番外地』が新作され、僕らの高校生時代は橘真一とともに過ぎていくこととなる。

 とは言っても、この種のシリーズは同じパターンストーリーでマンネリ化するのが常。さすがに6作目(『南国の対決』)か7作目(『大雪原の対決』)ぐらいまでが熱中限界で、いくらアホな半グレ少年でも成長はするし、知恵や分別もついてくる。飽きても来るし、予定調和のストーリーにもシラケてくる。

 それに、シリーズを重ねるごとにスクリーン上の橘真一には、表番組の任侠キャラクターが混淆してきているようで何とも違和感も感じるようになり、受験準備期も重なってスクリーンからも“健さん”からも遠のいていったのだった。そのせいか、1970年前後の騒乱期には東京に居たのだが、新宿昭和館や池袋文芸坐に象徴されるオールナイト興行での熱狂的喧騒は、あまり記憶にない。
 やがて“健さん”も、東映が現代ヤクザの仁義なき実録世界へと、またまた表看板を掛け替えたのを潮に古巣を出て独立。そして、やがて多くの人の記憶にとどめられることになる個性的ストーリーを選び、いわゆる“その後の高倉健”の映画作りが始まる。

 そうして10年。
再びスクリーンで出会った“健さん”は、もうやくざ者ではない堅気になって、いつの間にか女房持ちで、夕張の炭鉱夫になっていたが、やっぱり刑期を終えた網走帰りだった。名前は島勇作に変わっていたけれど、そのキャラクターには橘真一の、歳月分の人生の襞を重ねた果ての姿と匂いとが重なって感じられ、懐かしい人と邂逅したように思われた。独立後2作目(公開は3作目)の作品、山田洋次監督のロードムービーの傑作『幸せの黄色いハンカチ』だった。

 この映画は、映画俳優としての高倉健の転換点になった作品と言われている。
独立後のの高倉健の映画は概ね、基本的に任侠映画で既に形成確立されていた「寡黙」で「不器用」とか「ストイック」といったことばで象徴されるような「筋金の通った男」のイメージと“健さん”キャラクターが重なるように映画作りされている。
 だが、網走刑務所を出所した男が、車で北海道を旅している若い男女と出会い、約束の地・夕張を目指す『幸せの黄色いハンカチ』の島勇作は、そうした“健さん”イメージよりも、過去を悔恨し不安を抱えながら逡巡する男の、気弱なところもある人間臭いキャラクターで、僕の中では他でもない『網走番外地』の後日談だったのでもある。

 2014(平成26)年の晩秋、我が青春の橘真一こと稀代の銀幕スター、そして日本映画最後の男優と言うべき高倉健は、享年83歳で逝った。合掌。

映画『網走番外地』の舞台となった旧網走刑務所を移築した「博物館 網走監獄」の正門画像

映画の舞台となった旧網走刑務所を移築した「博物館 網走監獄」は北海道観光の名所。写真の正門横には高倉健揮毫の石井輝男監督への追悼碑も建つ。

映画にも登場する木造獄舎(博物館 網走監獄内)

映画にも登場する木造獄舎(博物館 網走監獄内)

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