堀井 彰

洲之内徹の場所

今読むに値するのは洲之内徹のほかいないと文芸評論家小林秀雄がいっているらしい。洲之内徹を読んだことがあるかどうかと知人から聞かれた。洲之内徹という作家を私は知らなかった。美術評論を書いているとのことだ。それで、彼の著書を読んでみようと思い、検索してみたら新潮社から刊行されている六冊はすべて絶版とのことであった。しかたなく図書館を利用して、彼の著書を読んでみた。

美術批評、評論というより画家、絵画作品を素材とした私小説というのが読後の印象だった。郷愁を感じさせる画家や絵画の選択眼、語り口の持主だと思った。教科書的な記述の多い美術評論の中では、出色な存在である。作家小川国夫の『冷静な熱狂』のときと同じく感情を移入させられる読後感だった。彼の文章を読みながら、いくどか自分の過去を振り返ることとなった。その中には苦い想いもあり、また幸せな時間もあった。彼の著作を読みながら、日本ロマン派の作家として出発して、剣術者を素材とした小説『喪神』で芥川賞を受賞した五味康祐のことを思い出した。彼はクラシックの音楽、作曲家を素材とした『五味康祐 音楽巡礼』を残している。生立ちから青年、壮年期にいたるまでの己の人生模様をフランク、バルトーク、シューベルトをはじめとする音楽家とその楽曲とを綯交ぜにして語った音楽評論の体裁をとった私小説といってもいい作品である。そこには貧困が、死が、挫折がそして愛と裏切りといった物語の主要な要素が描き込まれ、それらに纏わる処世の言葉がちりばめられていた。ひとつの楽曲に自分の人生のある一齣を投影し、そこに意味を読み取ろうと楽曲に没入する彼の姿勢に感銘した記憶が残っている。自分の人生で直截に語ることが困難な出来事でも、音楽家の人生に、楽曲に仮託することで、語ることが出来る。第三者の存在に仮託することで、自分の生との間に距離を作れる。同時に、読者としては作品世界との間に間を持つことができるから、安心して読物として劇を読むことが可能となる。そこに作家とその作品を素材として己を語る手法の価値があると思う。

五味康祐が己の人生を、たとえ作曲家の人生、楽曲に仮託する形式で装うにしても、具体的に生々しく語ったことは『五味康祐 音楽巡礼』が最初にして最後ではなかっただろうか。芥川賞受賞以降の彼は、剣術者の人生という虚構に仮構することで己を語る方法を見つけたと思える。

洲之内徹の著書を読みながら、画家の人生を、また絵画作品を素材として己を語る彼の手法を知って、五味康祐の先の作品を思い出したが、二人の手法に共通していることは、楽曲や絵画そして作家の人生に仮託することで、どのように凄惨で悲惨な人生での出来事も中和されて物語ることができることである。だからこそまた安全地帯に立って顔をそむけることなく読むことが出来る。しかし安全地帯に立ちながらも、いつしか己の人生へ反射せざるをえなくさせる力が、二人の文章にはある。

洲之内徹は過去に数回、小説の芥川賞の候補となりながら受賞を逃した経歴の持主であるという。残念ながら彼の小説作品を読む機会とは巡り会っていない。だからなぜ彼が小説という表現方法を断念して美術評論という形式を選んだのか、経緯は謎である。しかし六冊の著書は私小説作品として十分に読みごたえがある。というより私小説として読まれるべきだと思った。読ませる文章を書く能力の持ち主であることは間違いないが、また文章を書くにさいして、なかなかの戦略家でもあるが、彼の書くものが魅力を持っているのは作家、絵画といった素材の選択そのものがまた、一つの物語を感じさせるように仕組まれているからである。そしてより魅力的なことは、彼が作家を、絵画を教養知識として語るのではなく、自分の人生体験と綯交ぜにして語っていることでもある。その意味で、彼の著書を読みながら、滝沢修主演で何度も劇団民芸で公演された、画家・ゴッホを素材に三好十郎が創作した『炎の人』が思い出された。

一般的に、美術評論は、硬質でカタカナ言葉を多用し、欧米の哲学者たちの言説を引用して箴言の役割をさせている構成が形式として主流を占めている。それはこれまで美術評論にたずさわってきた人間たちがおしなべて大学教員、公立美術館、博物館の学芸員といった立場の人間たちであったことを考えると納得される。公平中立、客観的といった規範の存在がつねに念頭にあるから、学術的意匠を必要としていたのではないか。虚構としての客観性に固執している所為かもしれない。だから美術評論において欧米の文学者、哲学者たちの言説を引用するという形式が主流を占めていた。それも換骨奪胎するのではなく、引用することで客観性の保障を期待してのことである。現在においても主流の形式であることにかわりはないが、自らの立場を括弧に括っての論評が説得力を持たないことはあきらかだ。己を括弧に括っての論評はテレビ・ゲームをするのと大差がない。そのために美術評論は美術史論の域を出られなかったといえる。だから美術評論の世界で、洲之内徹の表現は己を括弧に括ることなく、逆に過剰に己を露出していることで、説得力を持った表現として成立しているのではないだろうか。

十数年も前に、音楽、写真、環境芸術といったさまざまな表現メディアに携わる若い世代の人間たちがつどう場に、フランスものを中心に最新思潮を翻訳、解説することで固有名詞となった大学教員が参加していた。参加者たちの中に彼から教えを受けた人間が多くいたことで、ゲストとして招待したようだった。

当時は、デリダ、フーコー、バルトといったフランスの哲学者の著書がさかんに翻訳され、また解説本も多数出版されていた時代である。その時代の中で、フランスの新思潮を翻訳紹介する彼らが、日本人の作品についてほとんど言及していないことが不満だった。具体的に現状分析する作業を期待していたのだった。海外の文献を翻訳紹介することが文化であるという思潮の一翼を担っている彼にそのことを訊いてみた。場は白け、場違いな人間がいると顰蹙を買ってしまった。いまだに欧米の新思潮を翻訳紹介することは高等な文化的営為と理解されているようだが、ポスト・モダン以降、紹介する欧米の新思潮がなくなった、つまり飯の種が無くなってしまった。そう考えると、最近の日本回帰の思潮も解かるような気がする。

日本の音楽、美術の世界でまっとうな日本語で日本人作家が、その作品が語られるという出来事は稀有なことであった。そのような時代状況の中で、洲之内徹の書く作家、絵画についての文章は存在感を持つことになった。まっとうな日本語で、自分の言葉で作家、作品から受けた感受性の中身を論じ、作品を語っているところが彼の魅力、特徴のひとつである。一枚の絵画を語るときに、作品の背後に作家の生の軌跡が存在するように、絵画を語る文章には洲之内徹の人生が刻まれていることが感じられる。だから読者は絵画作品、作家についての洲之内徹の文章を読むと同時に、そこに彼の人生のある場面をも読むこととなる。それが彼の文章の魅力であり、戦略的に成功している理由であると思う。彼の著書を読もうとしたときに、絶版になっていると知ったので古書店巡りのさいに注意して探してみたが、棚に彼の著書を見つけることはほとんど不可能だった。『彼の読者には女性のかたが多くて、本を手ばなさいから市場に流通しないの』と、鎌倉の、ある古書店の女主人が説明してくれた。その女主人の語り口は愛人の形見について語る口ぶりを彷彿とさせるものだった。洲之内徹の文章が持つ魅力の正体に納得がいく思いだった。

また、洲之内徹の文章が持つ魅力の一つに、彼は作品、作家に対してほとんど異義申立てをしない、という特徴を挙げることが出来る。異義申立て、別の言葉で言えば悪口ということである。批評という形式で仮装した批判、悪口は口にしない。多分、彼がマルクス・ボーイだった若かりしころは、さかんに批判という批評を行なっていたことは容易に想像できることだ。彼が異義申立てをした作家、作品は希有な存在である。その希有な一例が、美術史家・高階秀爾に対してである。彼がゴッホを論じた評論に対して、執拗に異論を述べている。その執拗さは作品への理解の仕方、体験の仕方に関わるからだと思える。絵画を見るときに、見るのではなく体験するといった出来事の有無に、洲之内徹はこだわっていたのではないか。教養知識として、美術史的知識として絵画作品を見るのではなく、まるごと作品を見ること、つまり絵画作品を体験することに彼は拘ったのではないだろうか。在野の人間の強靭さが、彼の異義申立てには感じられた。またもう一例は松本俊介のことである。ただ彼への批判は、いわば松本俊介への異義申し立てというより、松本俊介のなかに投影されている過去の、傲慢な姿勢で人民大衆を睥睨していた自分への異義申し立て、いわば近親憎悪という色彩が濃い。

嫌いな人と会ったことがないといった映画評論家がいたが、洲之内徹は自分の心の琴線にふれる作家だけを、作品だけを終始一貫して語っている。そこが彼の処世術の、戦略の特色である。だから彼が作品を語るとき、作品の欠点を理解しながらもそれをあげつらうより、才能を開花させる方向へ、作品の持つ個性的価値に焦点を当てて語る。作品に、作家に言葉で異義申立てをすることをしない。そのような態度をいつから、どのような経緯から身につけるようになったか不明であるが、彼は作品を、作家を語ることを拒むことで異議を唱えた、と穿った理解も可能だが、彼が百戦錬磨の戦略家である所以もそこにあると思う。そのような処世術を身につけざるをえなかった過去には一体どのような出来事があったのか。

洲之内徹の作家、作品への態度、好悪の基準を端的に物語る言葉が松田正平について語った次ぎの文章のなかにある。

『松田さんのアトリエは汚いが、汚らしくはない。そういう汚らしいもの、他人を意識したものが一切ない』
この文章は松田正平の人間を、作品を語って適確、秀逸であるが、また同時に、この文章は洲之内徹の世界を理解する鍵ともなっているように思える。この文章は彼の自戒、自責の念を背負っていると理解できるからだ。洲之内徹にとって『他人を意識したもの』は汚らしいもの、ことであるという認識が自責、自己嫌悪をともなって強烈にあったのではないか。自らの人生を、他人を意識して生きてきたという痛恨のきわみが、過去を振りかえったときに彼にあったのではないだろうか。関心を買うために他人の視線の中で踊って見せる自分への不愉快、嫌悪。他人の関心を引くために踊って見せる愚行を、愚行であると感じながらも演じてしまう自分への嫌悪といってもいい。この『他人を意識したもの』、汚らしい存在の象徴的なものが、彼がマルクス主義芸術運動に従事していた時代の自己像に鋭角に突き刺さっている。

松本俊介への異義申立ても、この他人を意識しすぎていた過去の自分への痛烈な呵責の思いが下敷きとなって、近親憎悪として発動されたものではないだろうか。また彼が愛惜してやまぬ新潟の画家佐藤哲三の作品評価においても、佐藤哲三が農民運動などに情熱を注いでいた時期の作品には、それこそ『他人を意識した』汚らしさを感じているためか、さほどの評価を与えていないことにも見て取れる。

『気まぐれ美術館』に登場させ彼が書きつづけてきた作家たちは、人生においてもまた作品においても寡黙な、他人を意識することの希薄な作家たち、また作家活動の初期の作品が多いのも頷ける。
『絵を描くことも独り言なのだ。ところで、現代の絵画、現代の小説、あるいは現代の評論からまったく失われてしまったのがこの独語性、モノローグの精神ではあるまいか。』
この文章は松田正平について語ったなかのものだが、同義反復的に彼は、汚らしい『他人を意識したもの』の世界の対極にある世界、いわば創作における無辜な魂とでも表現される世界について、『雨羽博物図譜』の作者・松森胤保に添いながら次ぎのように象徴的に語っている。

『どういうつもりであの図譜を作ったのだろうと思った。出版を考えるでもない。ということは、大勢の他人に見せようとするのでもない。勿論、金にするつもりはない。 では何のために……。だが、そう考えるのがわれわれ現代の人間なのかもしれない。つもりなど、彼にはありはしないのだ。しかし、それがわれわれにはもう分からなくなっている。そのわからないもので、あの図譜があんなに純粋で美しいということはわかっているのだが。』

彼が作家、その作品を物語るその文章は私小説としての要件を十全に備えている。彼が紡ぎ出す物語の核心は、作家が持つ無辜な魂の物語である、無辜な情熱といってもいい。この無辜な魂、無辜な情熱が描く生の軌跡を物語として彼は綴っているのである。とはいっても洲之内徹の特徴は一筋縄ではいかない。綴りかたの相貌にも拘りがある。たとえば洲之内徹が佐伯祐三と荻須高徳の作品に触れた文章の中に端的に表現されている。

『佐伯(祐三)の場合は、制作の情熱が画面の情緒的な表情となっているのに反して、荻須(高徳)の場合は、熱情は画面の造形的意思となっている。』
ここにも作品への好みの本質が端的に、徹底して表現されている。他人を意識することの様相が細密画のように彼の中で峻別され語られているといってもいい。
洲之内徹の著書を読むと、自分の絵画の見方を反省させられることが多々あった。彼の著書を読む人は絵画芸術に関心を持っている人たちであると思う。読者は自分の絵画作品の見方を反芻させられながら、彼の紡ぎ出す物語を読んでいるのではないだろうか。
美術史的教養知識として、あれもこれもと、絵画、造形作品を見てきたのではないだろうか、というのが読後感として私の反省である。足繁く美術展へ足を運んだが、それは絵画を見るというより絵画の前を通過したと表現するのが適切な出来事でしかなかった。一枚の絵を前にして、作家の存在そのものをまるごと体験するといった時間ではなかったことは事実である。作品との間に出会いの縁を感じさせる劇が、なかったともいえる。

洲之内徹が戦時中、中国大陸で軍の諜報活動に従事していた時期に、海老原喜之助の『ポアソニエール』と出会った経緯を綴っているが、彼が持った体験こそ、まるごと絵画を体験することであると羨ましくも感じてしまう。そのような体験を、絵画にかぎらず、小説、詩、映画といった作品との間に持ちたいものと願わない人間がいるだろうか。洲之内徹の著書の中には、邂逅という言葉を彷彿とさせるような美的出会いがちりばめられており、彼の魅力の大きな要素となっている。

洲之内徹の『気まぐれ美術館』を読みながら、その中に新宿のバー『風紋』のことが出ていた。彼によれば『風紋』のママである聖子さんは、画家・林倭衛の娘さんとのことである。彼の著書に『風紋』というバーの名前を見たとき、驚いた。洲之内徹の語り口では、そこに縁を感じるということになる。が同時に当時を思い返して、赤面のいたりでもあった。当時の、私の絵画体験といったものの一端が如実に表れているからだ。
二十代の中ごろ、ある男の後について『風紋』に通っていたことがあった。そのころ、作家・五木寛之の小説の主人公にも擬せられた興行プロモーターである神彰のもとに居候していた時期のことである。夕方になると彼のあとについて新宿にあった彼の経営する『北の家族』という居酒屋へ同行する。その店で彼はさまざまな人間たちと会っていたのである。いわば夜の仕事場といってよかった。
戦後のある時期〝赤い呼び屋〟として、彼は旧ソビエト、中国との文化交流事業に携わっていた。旧ソビエトからボリショイ・バレー団、レニングラード交響楽団、中国からは京劇などを招聘、公演を主催していたのである。また読売新聞社と共催でピカソ展、シャガール展といった美術展を日本で初めて興行したりもして一世を風靡した経歴の持主だった。私が居候を決め込んだ当時は、事業の失敗が重なり失意の底にあったころではなかったかと思う。その後、経営する居酒屋『北の家族』は店頭市場に株式上場を果たすまでに事業拡大したが。私が居候をしている当時は、夕方になると新宿の『北の家族』へ出かけ、彼を頼って擦り寄ってくる得体の知れない人間たちの話しに耳を傾けることで無聊を慰めていた時期であったと思う。ほとんどの話しが新規事業計画そしてそれへの融資、資金提供者の紹介依頼だった。また、なかには国宝級の陶磁器、掛け軸といった骨董を実家の蔵から持ち出し、それを売却して欲しいといった道楽息子からの依頼話などもあった。その売却依頼の品の中には、中国政府要人から故宮博物館へ買い戻したいと彼が依頼された骨董品も含まれていた。つまり日の当たる道を歩けないような依頼が戦後、興行で培ってきた彼の政財界の人脈を利用して一儲けしようと人が集まってきていたのである。ときには、彼が売却依頼をうけた茶器などの骨董品を届けに赤坂の有名料亭にいる政治家たちへ運んだりすることも居候の仕事のうちだった。自分の店を出ると、赤坂にあった事務所兼自宅のマンションの部屋へ帰る前に、立寄る店があった。その一つが『風紋』であった。記憶のなかの『風紋』は新宿にある店としては、高級で個性的なバーだった。身銭を切って飲むとしたら避けたいと思わせる、敷居の高い印象の店でもあった。酒の値段も高かったが、一見の客は入りづらい雰囲気が店にはあった。客のほとんどが初老の画家、または画商といった関係者たちだった。しゃれた木板のカウンターと店の壁に沿って短くソファーを巡らせただけの小体な店で、女の子は新劇女優の卵が一人二人いるだけであった。神彰は北海道函館出身で、若かりしころは画家志望で東京の文化学院に学んだ時期もあった男だ。それで興行界に転進後、音楽、美術の興行に手を染めることとなった。そのためか彼の人脈には画家、陶芸家といった人間たちが政治家たちに交じって多かった。バー『風紋』にいあわせた画家の中には、そのまま赤坂にあった事務所兼自宅に泊まりこむ人間も多く、そして翌日、昼近くに起床すると、きまって酔い冷ましとして熱い茶を所望した。それを給仕するのが居候の仕事の一つでもあった。彼等は茶をがぶのみし酔いを冷ましてから、なかには美術大学の教授を勤める画家などもいて、大学へ、今日は体の調子が悪いので休講にしてくれと事務局へ連絡する人間もいたりした。酒に酔って猥談や下卑た話ばかり話題にする『風紋』の画家たちが、画壇では有力者であったことを後年知った。
しかし当時の私はフランス文学者・渋沢龍彦やドイツ文学者・種村季弘などにかぶれていて、シュールレアリズムやその周辺の世界こそが芸術の世界と思いこんでいた。だから日本の画家や彫刻家たちは二三の作家たちをのぞいて、一顧だにしていなかった。日本の画家たちの作品は、所詮、植民地文化の域を出ないものと思いこんでいたのである。だから『風紋』の客である画家たちは猥談好きの助平爺たちとしか見ていなかった。事実、彼らの酔態を目にすれば、誰しも名のある画家たちとは想像できなかっただろう。
ただ不思議なことは、欧米の作家たちが醜態を演じている記述が伝記、評伝などに記載されていても、『風紋』の客たちとは異なり、なにか崇高な醜態と受けとめられていたことが奇妙ではあるが。

新宿のバー『風紋』に次いで、洲之内徹の著書の中に『一枚の絵』という原画の頒布会社が登場する。著書の中で安価な原画頒布に洲之内徹は疑問を呈しているのだが、『風紋』へ通っていた同じ時期、居候していた神彰の事務所で資金繰りが苦しくなり、『一枚の絵』を経営していた彼の知人のところへ二百万円の借金に出かけたことがあった。事前に話しがついており、仕事は二百万円の小切手をもらいにいくことだった。会社があるビルは一階が明るく大きな画廊になっており、壁面には明るくさわやかな印象の絵画がところせましと展示されていたことを鮮明に記憶している。社長室で小切手を預かったが、あとで彼も画家志望当時の仲間の一人だったことを知った。

〝赤い呼び屋〟とマスメディアで陰口されていた神彰のもとに居候していた三年余りの間に、彼の事務所兼自宅に集う画家、陶芸家たちに酔い冷ましの茶を給仕することで面識を持ったが、そのために彼らが所属する団体展、個展などの招待券や案内状をもらう機会が多々あった。けれど、彼らが描く作品への興味はまったく涌かなかった。当時、酒を肴に神彰が経営する居酒屋『北の家族』や赤坂の事務所に集う、というより屯していた画家たちの中には、作家として業績を残している人間も何人かいたことを後で知ったが、しかし当時の私には、ただの酒好き、助平爺たちといった印象でしかなく、逆に日本人洋画家の作品を見る機会から疎遠となる機縁となってしまったようだ。いわば作家や画壇の醜悪な裏面を見すぎたせいなのかもしれない。それでもその時期に、唯一ともいえる絵画体験と呼べるものがあった。アメリカの小説家、H・ミラーが描いた水彩画と出会ったことだ。神彰の事務所兼自宅の廊下の壁に、その水彩画が掛けられてあったのである。素朴な色使いの作品だった。小説は好きで全集といわれるものを読み、彼の詩画集『描くことは再び愛すること』を所持していたが、水彩画を原画で目に出来るとは思ってもみない出来事だった。H・ミラーの妻であったジャズ・シンガー、ホキ・徳田が神彰に贈ったとのことだった。水彩画には、元世界ヘビー級チャンピョンだったモファメド・アリの短い詩が彼のサインとともにしるされてあるというおまけつきだった。

年譜を見ると、その時期には、洲之内徹は『芸術新潮』誌上に埋もれた日本人画家たちの紹介を始めていた。画家や陶芸家といった作家たちと面識を持ちながら、彼らの作品と縁を結ぶことがなかったのは、だから機が熟していなかったからとしか思えない。

先に書いたように学生時代から渋沢龍彦、種村季弘などにかぶれていたから、彼らが著書で紹介するシュールレアリストやその周辺の作家たちこそ至上の芸術家という観念を強固に抱いていた。そのため教養知識として絵画を見ることはあっても、六冊の著作のなかで洲之内徹が綴っているような作品をまるごと体験するという機会は持つことはほとんどなかった。

それでも頭では理解していたつもりだった。一枚の絵画には、線の一本には、その作家の全人生がこめられている。だから一枚の絵画から何を読み取る、汲み取れるかは、見る人間の力量による。作品に対峙したときには見る人間も全人生を賭けて見る必要がある、作品から試されているのだ、等々と。しかし当時の私には、絵画、小説、詩などの作品は教養知識として存在していたにすぎない。知っている、見た、読んだという体験知識として作品を、作家を受容していたにすぎない。

洲之内徹は永い時間、一枚の絵画と向かいあって過ごす時間を至福の刻と感じていたという。そのことは大原美術館での時間の過ごしかたを綴った文章にもよく表れている。一枚の絵画に何時間もの永い時間向き合うという体験を持ったことが、はたしてどのくらいあるだろうかと反省してみる。ダリを見た、グールドを聴いた、サルトルを、ランボーを読んだという体験でしなかったような後ろめたさを感じさせるから不思議だ。一冊の小説作品を三度も四度もと繰り返して読んだ作品は何冊あるだろうか。とにかく生き急いでいたと自己弁護するしかない。まだまだ読んだり、見たり、聴いたりしなくてはならない作品があるというオブセッションに突き動かされていたとも言える。一枚の作品、一曲の楽曲などの前に立ち止まっていることは、遅れてきた青年にとって時間の浪費と感じられていたのである。いわばあれもこれもと疾走していた時代だったともいえる。同時に、本当は、読まなくては、見なくてはといった強迫観念、私を呪縛していたオブセッションの正体を究明するべきでもあったと、振りかえると慙愧の思いに駆られる。質より量だったといってしまえば話しは簡単だが、けれどそれでは何も語ったことにはならない。疾走しながら振りかえる必要があったのである。

日本の近代以降の美術に関心を持たなかった私にとって、洲之内徹の六冊の著書に紹介されている作家たちの多くは、未知の作家たちであった。だから彼らを知ることで私の知的欲求は満たされたことになる。いわば出会いのドラマを体験したことになるといってもいい。未知の作家たち、作品を教えられたことで、彼らの作品を見てみたい、体験してみたいという欲求を掻きたてられたことは間違いない。それはそれで貴重な体験であると思う。

では、洲之内徹において絵画を体験するとはどのような世界であるのだろうか。六冊の洲之内徹の著書の中には、書き写したいと思わせる箴言めいた言葉が散りばめられている。好みの作家、絵画が魅力的に語られている。それらの中で、一枚の絵画を体験する洲之内の体験世界が鮮明に表現されている文章がある。夭逝の画家と彼が呼ぶ田畑あきら子について書かれた『美しきもの見し人は』の中の文章である。
『線とは何か、線というものをどう考えたらよいかが解かったような気がした。画集で想像していたのとは反対に、実物で見ると、彼女の線は非常に緩やかで、速度が遅い。線に加速度がない。鉛筆が紙に触れて行くその一瞬毎を、画家が明晰に意識している線である。物を再現的に描くのとちがって、不定形のイメージをそのままの姿で絡めとろうとする彼女の線は、却っていっそう、そのイメージに密着しようとして、自らに正確さを要求するのであろうか。線の質はイメージの質と関係がある。』

素描作品をここまで読み込むという時間を、体験をはたしてこれまでに私は持ったことがあるだろうか。この文章を読んだときに、かつて、線を読むということに熱中していたことが記憶の底から蘇ってきた。ことのはじめは、小説家、詩人の生原稿の書き文字に関心を持ち、作家の筆跡に個性を探ることで作家の本質の一端を理解できるのではないかと予感したことだった。日本近代文学館へ通ったり、機会ある毎に展示会へ通ったりしながら小説家や詩人の生原稿を見た。それから絵画の作品にまで触手を伸ばしていった。しかし『線を読む』という言葉を発見したことに自己陶酔することで、なし崩しに線を読むことへの執着は消滅してしまったのだったが。

『彼女のデッサンの、線と線との交叉する位置に、黒い点がアクセントのように置かれていたりするのもゴーキーである。そして、彼女の素描は、画面の上でその点を決定するところから始まるにちがいない。不定形のイメージを凝視し、その形象化のいわば拠点となるいくつかの点を、彼女はまず空白の画面に据えてみる。点と点を結んで線が生まれ、その線に並行したり角度を持って次ぎの線が現れる。そこまでくれば面やフォルムは自ずと現れるが、その面とフォルムは明暗トーンで強調される。彼女の一枚の素描が形成されて行く過程を私はそんなふうに想像してみるのだったが、全部のその過程を、彼女は、彼女の無形のイメージにじっと目を据え、そこから目を離すことなしにやりおおせなければならない。でないと、画面がめちゃくちゃになってしまうだろう。』
また田畑あきら子の油彩作品に触れて次ぎのように語る。

『おそらく、彼女の抱いているイメージは、容易なことでは画面に定着しないのだろう。フォルムがなかなか画面に出てこない。彼女の場合、イメージと言っても、それは、どういう具体的イメージへも変わって行ける原イメージの如きものであり、それ自身たえず変形し続けているのだから、それを定着し、明示化しようとすれば、結局、描いては消し、描いては消しを繰り返すことになる。
だから、彼女にとって、一枚のタブロウの完成ということは、厳密に言ってあり得ないのではないだろうか。彼女の場合、完成とは、作品がその状態で塗りつぶされずにすんだ、というだけのことかもしれない。もともと、彼女は、持続的で堅固な美的世界の構築など考えてはいないのだ。しかし、だからこそ、生き残った彼女の作品の、なんという夢のようなとりとめのなさ、なんという優しさと激しさ、なんという美しさであることか。』

長々と引用したが、ここに描写されているものが、洲之内徹における絵画を見ること、つまり作家、作品をまるごと体験するということである。ここまで一人の人間に作品を読み込まれ、体験されるとは作家冥利に尽きる。洲之内徹が絵画作品と出会うとき、それは絵画を見るというよりも一枚の絵画をまるごと体験すると言ったほうが納得がいく根拠でもある。
画廊の営業時間が終了してから、事務室に一人絵画と向き合って過ごす時間を彼は楽しんでいたといわれる。いま田畑あきら子の作品について彼が寄せた文章を読みながら、絵画作品を見る彼の態度がどのようなものであったか、作品を見るというより体験すると表現されるべき時間がどのようなものであったか納得される。それは彼が絵画作品の売買に従事する画商だからでもなく、また美術評論を生業とする美術評論家であるからというよりも、ある時間の堆積が彼にそのような体験をもたらしたのだと思う。

この時間の堆積を考えるとき、彼のマルクス主義体験が大きな、ぬきさしならぬ比重を占めて影を投げかけているように感じる。かつてマルクス・ボーイだった自分の残像を合わせ鏡の片方の鏡として、戦後、彼は生きてきたのではなかっただろうか。たとえば画家・松本俊介を論じるとき、前にも書いたようにマルクス主義体験への苦い反芻が色濃く滲み出していることはあきらかである。彼にとって、マルクス主義体験とはなんだったのだろうか?そして日本人にとっては、といってもいい。

洲之内徹の生家には色濃くキリスト教の教義が雰囲気としてあったといわれている。宗教における布教活動といい、マルクス主義運動における情宣活動といい、同じ精神構造を持っていたのではないだろうか。それこそ『他人を意識した』行為の典型であったと思える。洲之内徹が佐藤哲三を後援した羽仁五郎に対して嫌悪感をあらわにするのも、また松本俊介への異義申立ての背後に、そして同郷の画家、重松鶴之助への濃厚な拘りも、彼のマルクス主義体験に根ざしていることは間違いない。

洲之内徹が体験したマルクス主義体験の内実は、他者と、社会といかに関係を結ぶかということに帰結されるように思える。キリスト教といい、マルクス主義といいその本質には救済されるべき存在としての大衆が、他者として想定されている。そして他者への過剰な干渉こそ、その本質ではなかったか。

洲之内徹のマルクス主義運動時代の生活の断面は、たとえば深川東大工町での青春の一時期を描いた文章にあきらかである。一時期、美術学校時代の生活の場であった同潤会アパートは象徴的に彼が抱えていた自己矛盾を物語っている。彼が生活し、運動のアジトでもあった同潤会アパートは当時にしては高級住宅であったはずだ。地方から上京してきた学生が生活するには場違いな生活空間であった。くわえて、同潤会アパートに生活しながら、プロレタリアの悲惨な生活を体験しなくてはという強迫観念が孕む自己矛盾に彼は無自覚であったことは間違いない。若気の至り、熱病に罹っていたのだと忘却するには、彼には重たい過去ではなかったか。だが、その生活体験を素材に物語る自己韜晦の語り口が、私には違和感を覚えさすことの一つである。断罪することも出来ない、さりとて根っこを掘り起こすことも出来ない。適切な選択は沈黙すること以外にはなかったかと思う。しかし彼は語る。これも彼の露悪趣味のなせるものだったのであろうか。彼の文章には自分への含羞が色濃く感じられ、それが魅力の一要素でもあるが、自分の過去の出来事を語るときに、踏み外して露悪趣味、嗜虐的な色彩を帯びてくることは否めない。
自分自身への不信が、松本竣介の自画像への異義申立てへ投影され、たとえば靉光の自画像を語ることで逆説的に陰画としての自分を語っている。

『などというあやふやなものはひとかけらもない。かわりに、一人の男の、言葉にはならない無限の想いだけがある。……これが芸術というものではないのか。竣介の自画像にはそれがない』
自己救済への想いが靉光の作品を語る洲之内徹の文章にはこめられているように感じられる。だが希求ではなく『などというあやふやなものはひとかけらもない』という極点は希求されるにしても、なぜ人は、意識するしないにかかわらずという立場に立ってしまうことがあるのかという出来事について探求して欲しかった。彼が抱えている問題のすべてがその一点に包含されていると理解するからである。たとえば彼が愛惜してやまない田畑あきら子の素描にしても、作品の背後にはアーシル・ゴーキーが存在している。一枚の作品の成立はどうしようもなく、の存在なくしては不可能であることは否定できない。けれど彼はかって使用していたであろう言葉、歴史性の前に佇み、好悪の感情に揺れ動いているように感じられてしまう。だから好事家の世界への想いが彼にはあった。だが、その欲求は憧れでしかなかった。彼は好事家の世界に沈淪することは出来なかった。

好事家という言葉からは骨董の世界が容易に連想される。ものと直截に向きあう世界である。骨董では作品そのものの価値が、作者の人生、作品が創作された時代性といった視点は希薄である。あくまでも『もの』そのものに美を見出そうとする態度の世界である。『もの』は語っても作った人、時代は語らない。洲之内徹が骨董について語ったことがある。評論家・小林秀雄が明治大学の講師のときに、講義に熱中すると懐中から時計を取り出し、鎖をつかんで振りまわす場面を引用して、机にぶつけ壊したらどうしようと私は心配をしてしまう。だから骨董を扱うことには不向きであると知ったという主旨のことを述べている。けれど、彼が絵画を語る態度は骨董を愛でる好事家の態度とどれほどの距離があるだろうか。

六冊の彼の著書を読むと、彼の思考が『他人を意識すること』を軸に展開してきたことが分かる。たとえば彼が思春期にあたる中学生の時代の恋心を語った場面があるが、彼の妹の友人へ思いを寄せる彼は、登校の途中で出会う彼女を意識して顔を俯ける角度から、彼女へ送る視線の角度にまで拘っていた自意識過剰ぶりを書いている。容姿には自信がなかったと自称しているが、彼女への意識の仕方は思春期特有の出来事と看過できない異常さが感じられる。この思春期の一場面からはじまって、マルクス主義運動に携った時期、中国大陸で軍事諜報活動に従事した期間、そして戦後の小説家、画廊経営者時代と、他人を意識したものを自分の中から殺ぎ落とそう、払拭しようとした個人史でもあったのではないだろうか。他人を意識することが至上命令とされた世界、マルクス主義に染まっていた時代、そしてキリスト教の教義が濃厚に支配していた幼年期、他人を意識したものが一切ない世界、松田正平、田畑あきら子、松森胤保たちの作品に象徴される世界への振幅の軌跡を追跡することが彼をまるごと体験することになるのではないかと思える。
この他者を巡っての葛藤において一つの転換点を象徴する思える場面を描写した文章がある。

『ところで、いま私の見ているこの連中は、どこから来て、どこへ帰るのだろうか。そんなことを、気にする方がおかしいが、いま見ている彼等は、いま見ているこの場だけの彼らで、私の目には不思議に彼らの日常が見えてこない。いうなれば実体が希薄なのだ。彼らは通り過ぎて行く。ちょうど舞台の上を通り過ぎて行く人物のように。しかし、事実その通りなのかもしれない。彼らにとっては、六本木という街が一つの舞台なのかもしれない。そこで彼らは何かをして遊んでいたのだろうが、そこで遊ぶということは、同時に何かを演じているということかもしれない。……いつもなら、こういう風景を前にして、私は言いようのない不安に襲われ、空恐ろしい気持ちになるのだが、今夜はそれがなかった。却って、東京っていいなあ、面白いなあと思うのだった。……時代というものに対する考えかたが変わってきたのだ。要するに、よくも悪くも時代は変わる。それをとやかく言ってみてもはじまらない。芸術家は自分のその時代生きなければならないのだ。むしろ、優れた芸術家は新しい時代をつくる。変わって行く時代の中で、自らもどう変わって行くかが芸術の課題なのだ。……古い美は滅びはしない。しかし、新しい美も絶えて生まれてこなければならない。どんな時代にも、その時代ならではの美が生まれるのだ。』

夜、帰宅する途中の地下鉄の中での出来事の描写である。ここでの記述には、彼における他者への関係の変容が鮮明に表現されている。立場というフィルターが消滅して、あるがままを受け入れようとする態度が全面に押し出されている。彼における他者意識をめぐる葛藤は、劇は、美という価値にすべて収斂されていくように思える。という言葉に象徴される社会性、立場はすべて美というの価値に収斂されていこうとしているようだ。彼には社会、他者に対するいいようのない不安、空恐ろしい気持ちを感じることはなくなり、またその逆の、過剰な干渉も姿を消している。彼の中で自己像が変容しているのである。

六冊の洲之内徹の著書を読んで、絵画の見方についていくつかの示唆を受けた。彼の言葉を引用すると次ぎのように表現できる。
『やっとこの頃になって、生きているということがとても面白いことだということが解かってきたところなのである。一日一日といろいろのことがよく見えてくるような気がして、とても楽しいのだ。見えてくるということは見方を覚えるということでもある。』
文中の、見えてくるとは見方を覚えるということでもある、とはマルクスの著書のなかにも見られる言葉だが、そのためにはどれほどの時間を必要とするのだろうか。先の六本木での地下鉄車中での感想といい、この見方についての文章にしても、彼の心の中から何らかの痼り、痞えといったものが払拭されたことが感じられる。他者への過剰な干渉が、彼の中から消滅しているとおもえる。他者の姿が遠景となっている。

六冊読んで感じたことは、私が二十代、三十代の年齢であったなら、一冊を読むことで彼から去っていたのではないだろうかということだ。歴史を俯瞰する視点が、彼には希薄だからである。作家を、作品を美術史の中に位置付けて作品の、作家の歴史性を考える作業を、彼の視点は放棄しているからである。放棄というより、拒否しているといってもいい。また、彼の言葉を逆用して表現すると、恋愛事件に象徴されるように、他者への過剰な干渉こそが若さの特権でもあるからだ。
六冊の洲之内徹の著書は他者への過剰な干渉を巡っての劇であるといってもいい。ととの往還をめぐっての劇であると集約してもいいだろう。他者への過剰な干渉をめぐっての彼の物語、劇を読むことが、彼の著書が読まれる理由でもある。しかし他者を巡っての物語を書き続けてきた彼が決着をえたとは思えない。はたして彼にとって、美は救済となりえたであろうか、物語、劇の終幕となりえたであろうか。その事情を『女のいない部屋』という文章が暗示的に語っているように思える。