石笑 辛一

恐怖(ホラー)から法螺(ほら)へ

黄檗宗萬福寺本堂内の釈迦牟尼仏像の写真

 『アウトサイダー』(1956年;コリン・ウィルソン)の出だしは“のぞき見”する男から始まる。そして人生の地獄を垣間見ること、あまりに深く見たり感じたりすることで、人は孤独者になる。だが、心底ではバランスのとれた人間になりたい。悟りを、自由と愛と平和のビジョンを求める。
 75年生きてきて、多少ともわかってきた事などは、ひと言で云えたものではナイが、箇条書き風に記すならば、

1.すべての悩み・不安の根っこにあるものは〝死の恐怖〟である。が人は死の壁を真向から認めたがらない。いつまでも生きていると思っている。
2.宗教や哲学のテーマは、〝いかに生きるか”から〝いかに死ぬか”へ。そして自分を知り、掘り下げることで、根っこでは宇宙とつながっていることを悟る。
3.病は、まぼろしである。死ぬってのは、古い上着を脱ぐようなもので、死んでも死なない。そしてまた、地上(この世)に転生する。
4.かくして、生れ、長じ、病み、老いる、を繰り返すのだが、実は生れる前から、この世の生き方のシナリオを自分で考え、決めている。が、生れた瞬間にこの事を忘却してしまい、はじめて生きるかのように生のドラマを演じてゆく。
5.生れ直すのは、自身の魂の成長のためであって、そのためならどんな事故も病、失敗もムダではない。ナニが起ころうと、すべて善し。

 せんじつめるとこんなところで、平凡なものだ。

弘法大師(空海)座像の画像

弘法大師(空海)座像;金剛峰寺蔵

 くりかえすと、人は必ずトシを取り死ぬ。だけど自分を肉体だと思うか、それとも意識と見なすかで、生き方が大いに違ってくる。肉体なら死んだらお終いだ。宇宙意識につながっている意識なら、死ぬってのは145億年前の始源(ビックバン)への大いなる旅立ちとなる。

 えっ、ウッソー? ホントですよ。ま、法螺話ぐらいにしか思えない人が多いでしょうが、他ならぬ空海さんがそうおっしゃっているんです。ボクの小学校時代のアダ名は「空海」でしてネ、いえ別に大天才というのじゃなくて、単にオデコが広大だったからですけど。でも何というか、中学生のボクはよく仏壇の前でミニ仏像を置いて拝んでる変な子でしたヨ。山伏とか密教に妙にひかれ、後年30歳代前半には「阿含宗(あごんしゅう)」に入会しかけました。

 今年はもうひとつ、ひと頃ハマった武医道書を再読。古武道をオモテとすれば、東洋医学・漢方はウラわざといってよく、ツボや民間医療法も見直し、一方、現代医学への不信はつのるばかり。また古典(文学・エッセイ)、伝統芸能(神楽・大道芸・都々逸・落語)への傾斜。これはもともと自分に潜伏していたものが、浮上してきたものでしょうが、老年の愉しみは増えるばかりである。

 ズバリ云います。トシを取るって、さみしくイヤなツライものではなく、死ぬってのもそんなにコワクなくなり、取るに足らぬコト・モノがステキに思え、毎日がワクワクドキドキなのです。あっ、また始まっちゃいました、ボクの法螺吹きグセが・・・。

*冒頭写真は黄檗宗大本山萬福寺大雄寶殿内に座す釈迦牟尼仏(お釈迦さま)