堀井 彰

篠山紀信の写真に心を浄化われた



 未整理の雑誌切抜きを整理していたら、篠山紀信とアンリ・カルティエ・ブレッソンのカメラ雑誌からの写真の切抜きが見つかった。ブレッソンのタイトルは<コミューン>、篠山のタイトルは<静かな国>となっている。くしくも二人が同じ被写体を撮影している作品だった。だから比較検討したいために切り抜いて保存していたのではないかと思う。しかしながら長い期間、比較検討した記憶はない。二人の作品を比較して見ることは写真についてさまざまに考えさせられた体験であった。

 1960年代から70年代にかけて米国を中心にメディアの関心を集めたコミューン運動の、その聖地といわれたニューメキシコ州の「ラマ・ファンデーション」の日常生活が撮影対象である。同じ「ラマ・ファンデーション」の日常生活を撮影対象としながら、篠山紀信の写真とアンリ・カルティエ・ブレッソンの写真とでは、篠山の写真がカラー、ブレッソンの写真はモノクロという相違はあるが、両者の写真の世界はまったく位相を異にしているように感じられた。

 端的に表現すると、ブレッソンの写真は報道写真的であり、コミューン生活にある特異点に焦点が向けられていて時代風俗を色濃く感じた。篠山の撮影時日は1974年となっている。ブレッソンの撮影時期もそれほどに大差はないと思われる。また切り抜きは古本として集めていたカメラ雑誌からのもので、古本として購入した時期には、コミューン運動そのものは時代メディアにおいて褪色していたのではないかと推察される。そのため時間の経過とともにブレッソンの報道色の強い写真は、写真としてのインパクトが希薄になっていったのではないかと思える。

 表題の言葉がなければ、篠山紀信の写真はコミューンという特異な表現を持つ共同生活の生活模様を撮影したものだとは理解できない。ありふれた田園生活の風景であるとも理解できる。しかし、写真に定着する生活のひとこまひとこまには独特な安らぎと静謐さが感じられる。被写体となっているコミューンに生活する子供たちの表情、身のこなしはもちろん、赤子を片腕に抱き少女と語らう母親と少女の髪や顔に注ぐ光の柔和な肌ざわりなど、自然な光が神々しいまでの至福感をたたえ、コミューン生活そのもの内実を象徴していると感じられた。
 写真は時代風俗という時間を超克して、共同体の構成員が希求する精神性を垣間見させてくれるようであった。手元にある写真の切り抜きのうちの何枚かの写真は、コミューン構成者たちの個性的な体験を超克して、人が存在することの至福感を体験させてくれるようだった。そして写真に感じる写真家の企図は、少女の、女性のブロンズの髪の毛に降り注ぐ自然光の扱いだけであった。

 長い間理解できない出来事があった。自分には能力がないのではないか、と篠山紀信のある種の写真を前にして落胆を体験したことがあった。それらの写真の中の一枚に『』(潮出版;1975年)シリーズのなかの、たとえば、部屋のなかに老婦人が正座する写真がある。
 その写真を前に、写真家篠山紀信の創作企図を、写真家が関心を持った対象はなんだろうかと、小首を傾げてしまうのだった。そして不得要領、納得することなく体験は終了する。いいものはいいんだ、好きなものは好きだ、理屈はいらない、といわば捨て台詞をはくこととなる。しかし、やはり綺麗だ、では終わらせたくはない。ましてや、それらの作品はスナップ写真ではない。光の編集から構図といった写真技術に意を配った結果である写真だからだ。

篠山紀信に『人間関係』(マガジンハウス;1997年)という表題をつけた写真集がある。写真家の企図が色濃く表出された写真集の一冊である。特異な企図と透明感の強い緊張がみなぎっている写真たちである。それはそれで凄いなとは感じられる。だがもう一歩先へ出た理解がと思うが、ままならぬ。
 もう一歩先へ出たいと歯噛みさせられる写真に『定本 作家の仕事場』(新潮社;1996年)に収録されている作家柳美里を撮った写真もある。
 机に載るワープロに向かって仕事をする柳美里を撮っている。整理整頓された書棚、テーブルには白のワープロが一台。日常生活のなかにある乱雑さは微塵もない。静寂である、生活することの騒音もない。生活の気配は風に吹かれすそを広げた窓の白カーテンだけである。この写真も戸惑いを体験させられた一枚であった。

篠山紀信が撮ったワープロに向かう作家・柳美里の写真(新潮社刊『定本 作家の仕事場』より)

篠山紀信が撮ったワープロに向かう作家・柳美里(新潮社『定本 作家の仕事場』より)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「綺麗」「美しい」「凄い」といった言葉が象徴する感想ではなく、それらの言葉は体験の出発点ではなく終点であるような感想を常々抱いている。一枚の写真から衝撃を体験したなら、その体験内容を十全に味わいたいと思い、体験を持続する、体験の拡張、深みを促す「綺麗」「美しい」「凄い」といった言葉に代替出来る言葉を見つけたいと思っていた。
 くだくだと記しているが、つまるところ、私の篠山紀信を発見したいといった、奇妙な想念に憑依されていたのだ。

 先にあげた古い雑誌切抜きの<静かな国>の写真たちを体験するなかで、撮影の対象、企図よりも、写真そのものが持っている空気感、雰囲気の存在に気づかされた。写真を見た体験を言葉に翻訳する欲求よりも、体験そのものを全身で持続的に味わいつくしたいといった欲求が勝ったといえる。写真そのものが持っている空気感、雰囲気といったものがあること、それらがひとつの存在力を持っている世界があることを、<静かな国>体験は教えてくれた。いわば、写真そのものが所有する空気感を、雰囲気を見ることで体感することも、写真の見方のひとつであると思えたのである。

 理解するのに、納得するのに戸惑う体験と記した写真たちも、『家』、『定本 作家の仕事場』の中の写真たちを、改めてそれぞれの写真が所有する空気感、雰囲気を見るといった立場から体験すると、戸惑いが氷解するのを体験できたのだった。それらの写真には写真家篠山紀信の作為が大いに発揮されているはずであるが、それらを感じさせられ、阻まれることなく写真世界の没入できたのである。これは写真が開かれているからだ。まるで末広がり、逆紡錘系の世界である。だから、写真を見ながら思考による視野狭窄に陥ることなく、気持ちが開放されるのを体験できる。見る体験自体が思考である世界。<静かな国>体験で、文学でも、絵画でもない写真というメディアの個性を、少しは体験できたような気がした。