洲之内徹

「画廊から」-現代画廊 田島隆夫 彩墨画展-

田島隆夫が白洲正子に送った、みかんと柿を描いた彩墨画入りの賀状の画像(『白洲正子への手紙』(2000年;文化出版局)より)

田島隆夫が白洲正子に宛てた彩墨画の賀状(『白洲正子への手紙-二人が遣した文筺から』(2000年;文化出版局)より)



 田島さんの絵が一年一年、確実によくなって行くのを見ると、私は、一本の樹が一年一年、根を深く降ろして行くのを見るような気がする。つまり、物を見る田島さんの眼が深くなって行くということだろうが、その深くなって行く行きようが、何か摂理に適っているという気がするのだ。

 今年も、個展に並べる絵を選びに行って、三百枚くらいの中から六十枚程選んだ。何時間もかかる。疲労困憊する。途中で一休みしてちょっとウイスキーを飲み、すっかり終ってからゆっくり飲ませてもらい、夜中の三時頃になって帰ろうとするところで、田島さんが、どこかその辺から巻いた織物を三本か四本とり出して私に見せた。どこかその辺というのは私が酔っているからで、織物はまるで手品のように私の眼の前に現れたが、その美しさに私は感動した。
その後数日、私はその感動について考えていた。あの感動は何だろう。単に美しいものを見たという、それだけはないのだ。うまく言えないので寝言みたいなことになってしまうが、この頃、私ははかなさということをいつも思っている。人生もはかないし美もはかない。どっちみち、いずれはみんな消えてしまう。あとには何も残らない。残るとすれば自分のためにしたことではなく、他人のためにしたことだけが残るのではあるまいか。田島さんは織物を織るとき、それを着る女の人を美しくするために織る。田島さんの織る布は、田島さんを離れて、どこかで誰かを美しくするためにそこで生き、そこで残る。
 そのことに私は感動したのだ。一年に一度私は田島さんの家に行き、行けば必ず何かだいじなことを教えられる。今年もそうだった。

[Editor`s Note]

 <洲之内徹と現代画廊 昭和を生きた目と精神>展(2013年)の図録巻末に掲載されている「現代画廊展覧会歴(編・後藤洋明)」によると、1982(昭和57)年7月5日~7月17日に<田島隆夫彩墨画展>が開催されている。この年から洲之内が亡くなる1987(昭和62)年まで毎年1回、それは続いた。上の文章は、その何回目かの展覧会の案内文と思われる。

田島隆夫の地機織を特集した『民藝』(日本民藝協会・刊)の732号の画像。表紙は田島が織った1964年日本民藝館賞受賞作品。

田島隆夫の地機織を特集した『雑誌民藝 732号』(日本民藝協会・刊)には田島の地機織作品の写真図版20点が掲載されている。表紙は1964年に日本民藝館賞を受賞した織。

 田島隆夫は織物作家。1926(大正15)年、埼玉県北埼玉郡埼玉村(現・行田市)の紺屋に生れた。結城紬を除いてほとんどの織機が高機になる中、「いざり機」とよばれる昔ながらの地機(じばた)によって、人がきものとして心地よく着られるための美しい布を織り続けた。彼の物つくりに容赦ない注文をつけて技を鍛え才を磨かせたのは白洲正子。二人の交流は田島の辞世まで30年以上に及び、白洲は敬意をこめて彼を“織司(おりし)”とよんだ。

 「ひと月に二反も織れば十分食べていける」と言って、多くをむさぼらず生活したという。なんという潔い精神だろう。この有名な話は、今この時代にあっては伝説的でもある。このプリミティブな姿勢が、縞や格子の織のデッサンでも、削ぎに削った柄になったという。そういう稀代の織司は夜になると「気分転換のため」と言って、日々絵筆をとり、畑に成った野菜、庭や近在の野の花・草木など、身のまわりに在るものを美しい彩色で和紙に描き、うたを詠んだ。

 「・・・ふだんなもの、何んでもないものが却ってただごとでなく思われて、そこに自分の仕事の始末とでもいうものが在るのではないかと思ったのです。」それは多分、絵にも、生き方にも深く反映されたものであったと感じる。
 1996(平成8)年9月逝去。享年70歳。こういう人に出会えたことをうれしく思う。

 2015(平成27)年1月25日(日)まで、museum from windsにて企画展「織司 田島隆夫の彩墨画」が開催されている。