洲之内徹

「いっぽんのあきビンの」より

四谷十三雄遺作展図録表紙(1995年 四谷十三雄遺作展実行委員会) 

四谷十三雄遺作展図録(1995年 四谷十三雄遺作展実行委員会)


四谷十三雄の作品『静物』(平塚市美術館所蔵)

四谷十三雄『静物』(平塚市美術館所蔵)

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 それにしても、こんなに絵具を盛り上げる必要があるのかという疑問が私なんかには起こるが、しかし、厚塗りというのは、技法というよりも思想だろう。そうしなければ自分の考えているものが実現せず、それでも、まだ出ない、まだ出ないと絵具を上から重ねて行く、その結果が厚塗りの画面になるのだ。
 コタヴォの影響もあるかもしれない。四谷十三雄がド・スタールの瓶に似た瓶を盛んに描いた昭和三十七年の、その年の国際具象展には、いいコタヴォが来ていた。四谷の厚塗りは、同じ厚塗りといっても、小泉清式の厚塗りとはちがう。ああいう絵具の堆積物のような盛り上げではなく、平らに、大きなナイフで、一息にキュッと押さえこんである。だからモダンで、しゃれている。センチメンタルではない。

二コラ・ド・スタール『瓶のある静物』

二コラ・ド・スタール『瓶のある静物』

 ド・スタールの影響を言う人もある。ド・スタールの存在を教えられたのは評論家の、大島辰雄氏からであった。四谷十三雄が、横浜の造形芸術研究所で友達となった星野鉄之、芥川麟太郎と三人で、東横線・白楽の楡という喫茶店で三人展をやっていたとき、閑なその喫茶店へ来て原稿を書いている人がいた。こっそり覗いてみると、「ビュッフェの芸術について」といったふうの原稿で、ありゃだいぶ偉い人らしいぞというので、近付きになってみると、それが大島辰雄氏であった。その大島氏から四谷十三雄はド・スタールの画集を見せてもらっている。もっとも、ド・スタールの影響というのは、彼がモチーフにした瓶のことだろう。一時期、彼は憑かれたように瓶を描いた。四谷十三雄の瓶には、瓶に托した生命感の躍動がある。「生きていることを意識したい」という言葉が、彼の日記の中にある。
 影響ということを言うなら、当時圧倒的だった林武とか、斎藤義重といった人達の影響もあるかもしれないが、ともあれ、四谷十三雄の遺作展で私がいちばん強く感じたのは、絵というものはまず、それを描く人間との関係に於て在る、ということであった。絵というものは本来そういうものではないだろうか。にも拘らず、そういう絵が、どこを見廻しても、いまは全く無い。だから、四谷十三雄の絵は、私には非常に新鮮に見えた。これが絵だ、という絵に、久しぶりに出喰わしたのだった。四谷十三雄が死んでからまだ十五年しか経たないが、その十五年間に、世間では何かが失われてしまったのだ。
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(新潮社刊『セザンヌの塗り残し|気まぐれ美術館シリーズ』所収)

[Editor`s Note]

 四谷十三雄は1938(昭和13)年、横浜保土ヶ谷に生まれた。中学卒業後富士電機川崎工場に就職。高度成長の主力エンジンだった京浜港工業地帯で昼は工員として働きながら帰宅後大作を描き続けたが、1963(昭和38)年、初の個展開催を目前にして第二京浜国道の横断歩道で輪禍に遭い亡くなった。まだ25歳の若さで、刷り上がったばかりの案内状を抱えた帰路でのことだった。
 15年後の1979(昭和54)年4月、彼のの遺作展が横浜市民ギャラリーで催された。このとき洲之内徹ははじめて、世に出る前に若くして不慮の死に見舞われた四谷十三雄という画家を知り、彼の作品を目にするのである。
 「 ・・・・私は感動した。感動という言葉は大ざっぱで、丸太棒みたいで好きではないが、適当な言葉を知らないので仕方がない。彼の絵を通して、私の裡に、四谷十三雄という未知の人物に対する愛情のようなものが、突然湧いて溢れてきたのだ。会いたくても、もう会えない人だと思うだけに、その気持ちはいっそう切実だった。」と、同年自らの現代画廊で企画した「四谷十三雄遺作展」のパンフレットに記し、率直な想いを吐露している。
 「私はどれでもいいから彼の絵を一枚欲しいと思った。どれでもいいとは無責任みたいだが特に彼のように短い期間にさまざまな画風を変えている画家の場合はそうだが、しかし、どの時期のどんな仕事の中にも四谷十三雄が確呼としている。その四谷に魅かれるからそうなのである。」

 「いっぽんのあきビンの」は、現代画廊での「四谷十三雄遺作展」開催に合わせて『芸術新潮』の連載に書いたものだろう。洲之内にとっても因縁のある川崎の、四谷が絵具を買い求め親しく付き合いのあった画材店・市川金昌堂の主人夫妻を訪なう、例によって独特の日記風エッセイのかたちで綴られる。タイトルは1973年に刊行された金子光晴の詩集『花とあきビン』(青娥書房)からのインスパイアで、その詩句を重ねながら、隔てられた歳月とそれがもたらす変化のなかで、会うことのできなかった夭折の画家への愛と痛恨の想いがよく伝わり、洲之内美術評論の琴線に触れられるような言葉が散らされた一文だと思う。