堀井 彰

<海老原喜之助「ポアソニエール」>と出会う

海老原喜之助の「ボアソニエール」画像

海老原喜之助の「ボアソニエール」(新潮社『気まぐれ美術館シリーズ|絵の中の散歩』より)



 海老原喜之助の『ポアソニエール』をはじめて見た。美術評論家洲之内徹の評論集「絵のなかの散歩」を読んではじめて作家について知った。そして複製画で作品を見る機会はたびたびあったが、期待していた感動体験は共有されることはなかった。
 『ポアソニエール』はすなおで清楚な作品で、心のこわばりを解きほぐす魅力を持っていると感じたが、『ポアソニエール』の何が中国大陸の戦場で深く複雑に屈折した洲之内徹の心を慰撫しえたのか、彼を魅了した力がなんであったのかは体感できなかった。

 はじめて海老原喜之助の『ポアソニエール』の絵画を目にして、洲之内徹を魅了した作品力について腑に落ちるものを体感できたと思った。たとえば美しい女の頭に載せられた笊の中の魚の体を走る白絵具の筆跡を追うことで心地よい音色を聴くことができた。その体験は複製画を眼にしているときには不可能であった。画家の残している筆跡の速度感、また絵具のボリュームがもたらす心の奥行きの追体験も難しいことだったと思う。
 少女の頭上の笊に載せられた魚の身体を走る白色の油彩は原画と複製画とでは生体と死体との差を体感させた。白色油彩の筆跡を体感するだけで、時間体験が大きく、深く変容するのを体感した。そこには醜悪な作家意識もなかった。透明でさわやかな音楽が心地よく流れていたと思う。時間を忘れて作品世界に浸っていたいと誘惑する力を認めざるをえない体験だった。

 「こういう絵をひとりの人間の生きた手が創り出したのだと思うと、不思議に力が湧いてくる。人間の眼、人間の手というものは、やはり素晴らしいものだと思わずにはいられない。他のことは何でも疑ってみることもできるが、美しいものが美しいという事実だけは疑いようがない。絵というものの有難さだろう。知的で、平明で、明るく、なんの躊いもなく日常的なものへの信仰を歌っている『ポアソニエール』は、いつも私を、失われた時、もう返ってはこないかもしれない古き時代への回想に誘い、私の裡に郷愁をつのらせもしたが、同時に、そのような本然的な日々への確信をとり戻させてもくれた。頭に魚を載せたこの美しい女が、周章てることはない、こんな偽りの時代はいつかは終わる、そう囁きかけて、私を安心させてくれるのであった。」

 『ポアソニエール』の原画を眼にしてはじめて、この洲之内徹の体感を近似的に追体感することができた。一枚の複製画を見ることで、ここまで己の気持ちを読み込むことを可能にした彼の慧眼と筆力に脱帽である。

 また、海老原喜之助の『ポアソニエール』をめぐる記述は、洲之内徹の絵画への眼力の見事さを証明するばかりではなく、彼の美術評論の個性をも象徴していると思える。
 海老原喜之助の『ポアソニエール』を論じた評論は、洲之内徹の美術評論の、ある意味でひとつの雛形ではないだろうか、個性が典型的に表出されているのではないかと思える。

 洲之内徹の絵画評論は、作品との出会いを、出会いの機縁を私的告白として描くことにあるのではないか、そして絵画評論を読む人間の想像力を刺激して間接的に作品論を形成しているのではないか。絵画を素材としての私的告白することが、結果として絵画論となっているのではないだろうか。洲之内徹が直截に作品を評論する場面に出会うことはまれである。新潟の画家田畑あきら子の作品を論じたときには、珍しく試行的ともいえる形で、直截に評論を試みていた。しかし読後感はさっぱりしたものではなかった。

 洲之内徹の評論の個性は、作家との、作品との機縁を中心とした出会いを関係論として私的告白することにあるように思える。だから、彼の評論の個性である私的告白は、新潟県出身の画家佐藤哲三の絵画を論じた『赤帽平山氏』の件に鋭く表出されている羽仁五郎に対する嫌悪が象徴的に語っていると思う。私の記憶では洲之内徹が他者に対して嫌悪感を表出した記述は二人いる。二人に共通していることは、絵画を、作家を論じるに、私的告白からはじまらず、美術史的な、またはイデオロギー的な立場からはじまることである。
 洲之内徹の絵画論は、画家論は、好きか嫌いかの私的告白が原点であると思う。

 昨年、地方都市へ出かけたおりに、街の画廊に立ち寄った。店内の壁面に飾られる絵画のなかに目をひく一点があった。購入したいとは思わなかったが、とにかく目をひいたのだった。しばらく悦に浸っていると、話題の画家の作品なんですよ、と画廊の主人が説明した。ヨーロッパ在住画家の作品の意匠を剽窃した日本人画家の作品であるという。画廊の主人に説明されて、一時、テレビ、雑誌などで騒がれていた事件を思い出した。しかしいったい絵画作品の何を盗作、剽窃したのかは問題にならなかったと思う。そしてそれらの知識にかかわらず、目の前に飾られてある一枚の絵画は、魅力的であったことは間違いない。もし経済的に余裕があれば、手元に置いておきたいと思った。
 好きか嫌いか、惚れたかどうかが問題だ、作品の意匠や構成、彩色を剽窃した、模倣したとかは不必要な雑念である。目の前にある絵画が好きか嫌いか、惚れたかどうかである。日常生活において性悪女に惚れることだってないわけではない。

 最近、画家藤田嗣治の“戦争画”が公開をはばかれていることを知った。絵画そのものを目にしたことはないが、テレビのドキュメンタリー番組で目にした。ぜひとも現物を目で見たいと思った。第一、“戦争画”いう呼称自体が不愉快である。呼称それ自体に差別がひそんでいる。藤田嗣治の戦場を素材とした絵画が戦争絵画であるからと非公開で、キャパの銃弾に撃たれた兵士を撮った写真が優れた報道写真と評価されることは理不尽の極みである。しかしその理不尽な価値判断のよってくる由来を詮索すれば、好き嫌いではなく頭で見ていることに帰着するのではないか。一枚の絵画と関係を結ぶときに、不必要な大量の夾雑物に災いされている。
 だが、洲之内徹の『ポアソニエール』に関する文章<海老原喜之助「ポアソニエール」>は、人を誑しこみ、惚れさせる魅力を十分にひそませている。