洲之内徹

「土井虎賀壽-素描と放浪と狂気と」より

土井虎賀壽『自画像』スケッチ24×24(新潮社『気まぐれ美術館』より)

土井虎賀壽『自画像』スケッチ24×24(新潮社『気まぐれ美術館』より)



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 ところで、そういう読み方でこの本を読みながら、どうかすると、私はこの本の哲学的な主題ではなく、この哲学者の描いたデッサンを思い浮かべていることがある。いつの間にか、この人のデッサンを頭に置いて本を読んでいるのだが、そういうときの私は、どうやら知らず識らずのうちに、土井氏の素描の、あの、際立った特性を持ちながら容易なことでは正体を明かしそうもない魅惑の謎を、この本の中で解こうとしているらしいのだ。そのことに気がついたある日、私は家に帰ってから、別の、何かデッサンのことが書いてありそうな本を探して開いてみた。すると、こういうところが見付かった。

「デッサン程知性の協力を必要とする芸術を、私は他に知らない。それは例えば眼が眺めている複雑な対象から一つの線を抽出するということであっても、又は手の動きに乗ぜられず、或ることを書く前にそれを頭の中で言って見るということであっても、又は、創案に駆り立てられて、画家が抱く想念が逐次的に強化され、明確になり、それが画家の眼の前で、紙の上に次第に豊富な姿を現す場合であっても、この作業には精神のあらゆる能力が用いられ、作業者の性格も亦同様に強く其処に示されるものなのである。」

 以上はヴァレリイの『ドガ・ダンス・デッサン』(吉田健一氏訳)の、「余談」という章の冒頭の部分だが、マックス・フリードレンダーの『芸術と芸術批評』(千足伸行氏訳)の中にも次のような一行がある。

「デッサンは彩描画以上に高度の選択、決断、取捨など、要するに精神的行為を必要とするものであり・・・」

土井虎賀壽『ソファー』スケッチ 30.5×25

土井虎賀壽『ソファー』スケッチ size:30.5×25(新潮社刊『気まぐれ美術館』より)

 つまり、これだ。例えば、ヴァレリイが「眼が眺めている複雑な対象から一つの線を抽出するということであっても……」と言う素描のひとつの機能は土井氏が言葉を選び、あるいは言葉を創造する場合になんと似ていることか。ヴァレリイにしてもフリードレンダーにしても、何れも画家と画家のデッサンについて語っているので、優れた素描家になるための技術的修練の必要については自明のこととして触れていないが、どちらも、デッサンが多面的な精神作業の所産であること、これほど「知性の協力を必要とする芸術」は他にないことを符節を合わせて言っていて、この二人の言葉は、画家ではないが、哲学者として訓練された高度の思考の持主である土井氏が、素描家としての最も重要な資格を優先的に具えていることの、有力な証言になるのではないだろうか。

 ところで、フリードレンダーのその本の中には、別のところに、ニーチェの次のような言葉が引用してあって、それがまた、土井氏の素描について、あることを私に考えさせる。ニーチェがこう言っている。
「画家というものは、結局は自分の気に入ったものを描く。そしてまた彼に描けるものはすべて彼の気に入るのである。」

 私が考えるのはこういうことである。人はよく「絵になる」とか「絵にならない」とか言うが、それは、物を見て感動しても、自分にそれが描けるかどうか考えてみるのだということ、そのうちに追々自分の描けると思うものに自分の感動を限定するようになるかもしれないということ、さらにまた、職業的な画家ともなればなおさら、自分の得意なもの以外は対象を真剣に見ようとも、探そうともしなくなり、逆に、自分の身につけた技術と様式に合わせてしか物を見なくなるのではないかということである。マンネリズムと無感動の危険がそこに胚胎するが、「画家というもの」でない土井氏にはそれがない。感動があれば何にでも、顧慮することなく、氏の鉛筆はそのものに向って行く。だから巧いデッサンも出来るが下手糞なデッサンも出来る。その代り、巧くても下手でもそのデッサンは生きていて、感動的なのだと・・・・。
新潮社刊『気まぐれ美術館』所収

[Editor`s Note]

土井虎賀壽・著『時間と永遠』(筑摩書房)

土井虎賀壽・著『時間と永遠』(筑摩書房)

土井虎賀壽(どいとらかず:1902~1971年)は、京都帝大の西田幾多郎門下で偉才を発揮した哲学者。ニーチェ、ゲーテの著作翻訳・論考、『華厳経』のドイツ語訳などの研究・著作で優れた業績を残した。旧制三高、京大、学習院大、獨協大などで教鞭をとったが、西田哲学-いわゆる京都学派の中では「異端児」「反逆者」「孤高の奇人」と称され、狂気を孕む言行も多かった。土井が旧制三高講師を勤めていた時に教え子だった作家・青山光二は、彼をモデルに『われらが風狂の師』(1981年、新潮社刊)を著し、その奇行ぶりを描いている。また、武田泰淳の『ひかりごけ』で「異形の者」に登場する哲学者も土井がモデルと言われる。
戦後の土井は文学者としても知られ、また、独立美術協会に属す素描家でもあった。没後残されたスケッチの企画展が現代画廊で開かれ、このとき洲之内は未亡人の土井杉野(翻訳家)から遺稿集『時間と永遠』(筑摩書房)を贈られている。引用冒頭の「・・・この本を読みながら・・」とはその遺稿集のことで、表紙のカットにも土井自身のスケッチが用いられている。本文は、洲之内徹にとって「好ましい絵とはどういうものか」が窺える一文と思われる。