ディシー沢板

社会と世間

TPP(環太平洋戦略的経済連携協定:Trans-Pacific Strategic Economic Partnership Agreement)に関心がある。農業関連の仕事に携わる人間としての農業問題から見た関心ではない。TPPは文明と文明の駆け引きであると見るからである。

経済(文明)のルールは、19世紀以降近代化した国が自国の価値観を持って国際的ルール化してきた。各地域には歴史的ローカルルールが存在していたが、「あなた達のローカルルールで決める分には全然構わないが、それでは近代化(先進化)は遅れるよ!」というスタンスでグローバルルールに引き込んでいった。そして、グローバルルールは大体においてキリスト教文明の価値観に沿ったものであった。
TPPについてある人は、明治維新、敗戦、と同じレベルのインパクトを持ったグローバリゼーションという名のキリスト教由来の西洋文明の流入となるという。TPPの賛否を論じるつもりはないが、グローバル化が進むことは否めない。

グローバル化(西洋化=キリスト教化)していく価値観の中で、では一方のローカル(日本的?)なものとは何であるか。キリスト教やイスラム教は一神教である。日本は多神教?…仏教?…神道?…武士道?…無宗教?…。

養老孟司の『無思想の発見』(ちくま新書)と鴻上尚史の『「空気」と「世間」』(講談社現代新書)を読んだ。
-「日本には思想はないが、世間はある」、「“俺には思想なんかがないという思想”を“どう維持するか” それは思想ではなく、具体的方策である」(『無思想の発見』より)。
-「世間のルール(1.贈与・互酬の関係、2.長幼の序、3.共通の時間意識、4.差別的で排他的、5.神秘性)と、物質の背後に何かが「臨在」している感じ、知らず知らずのうちに、その何かの影響を受ける状態=対象の臨在感的把握としての空気。」(『「空気」と「世間」』より)。

ともに“世間”という日本独特の価値判断の中で生きる日本人論が書かれている。一神教の価値観と“世間”を基準とした価値観。絶対的と相対的。大きな流れが無自覚な個人をも覆う。

“世間”に個人が縛り付けられた息苦しい「空気」と、それでもその「空気」で繋がっているという安堵感。経済的グローバリズムは地域共同体社会という“世間”を壊し始め、また会社というもうひとつの“世間”も揺るがし始めている。一神教に頼らずやってこられたこの地域共同体と会社という二つのセーフティーネットが崩れることは、同時に“世間”のルールからはみ出すことの快適さを知ることにもなる。快適さは次の価値観がもたらす新たな息苦しい“空気”の登場を予感させるのは、日本人に染み付いた感性=臨在感的把握なのか。

否応なく、グローバリザーションの波は襲ってくる。ヒタヒタとではなく、時として巨大な津波として。無思想で世間を生きている私はと言うと、農業という最も“世間”のルールを強く残した地域共同体を相手にしながら、片や日々絶対主張を曲げないタフネスを相手に苦闘している外資系企業の社員でもある。
贈与・互酬の関係に気を遣い、長幼の序でことばを選び、“世間様”に顔向けができるための自己規制に走りながら、グローバルな評価制度の中、成果を求めてビジネスを展開する。そのギャップは主観的には苦痛も含むが、双方の限界を客観的に見る中で違いを確認し、先見する事で主体的関わりを持てる。

自分たちを支えるものの脆弱さを理解・意識し、「世間」と「社会(よりグローバル化された社会)」の中の、複数の価値観を楽しんでいくことが大事であるように思う。
TPPで農業も変わる。社会も変わる。変わることを楽しめるか、苦痛と感じるか。“世間”にも“グローバル”にも未来はあると思いたい。キリスト教徒にはならないけれど。

養老孟司・著『無思想の発見』と鴻上尚史・著『「空気」と「世間」』

養老孟司・著『無思想の発見』と鴻上尚史・著『「空気」と「世間」』