檜山 東樹

山中貞雄の冒険-夭折の巨匠覚書 後編

中村勘三郎が亡くなった。訃報を聞いたときに、はじめはピンとこなかった。一瞬考えて、ようやく「あ、勘九郎が・・・?」と思い至った。
7年前に中村屋十八代目を襲名して勘三郎となったが、「勘九郎」と呼ぶ方がしっくりする、そんな存在だった。芸が勘三郎の名に見合わないとか、そんなことを言うつもりは毛頭ない。ひとえに、勘九郎の時代が長かったからで、洟垂れガキの頃から子役として出ていた勘九郎を同世代として観てきたし、同時代をずっと生きてきたからである。その間ずっと、彼は「勘九郎」だったのだ。

芝居の上手さ・器用さは当世歌舞伎役者の中で抜群だったと思うが、それは芸歴の長さに裏打ちされただけのものでなかった。江戸の芸、かぶき者の文化を伝えようとしていたし生きようとしていた、その意味で「最後の役者バカ」だったかも知れない。実際、心根もあり様もいい男だった。
文字通り勘三郎として「十八代目の芸」を見せてくれるようになるのは、まだまだこれからであっただろうに・・・。享年57歳に対して使うべき語ではないかも知れないが、「夭折」まさに無常で、悼まれる。また一人、身近の者が逝ってしまったような寂しさがしてならない。

と、やや滅入っていたら、今度は小沢昭一の訃報が入ってきた。こちらは享年83歳だから、まァ、世間には天寿とされてしまうのだろうが、本人は惜別の思い篤いままに、お得意の語り口でもあった「如何ともし難く・・・」と、逝ったことだろうと思う。

洲崎パラダイス・赤信号』や『幕末太陽傳』などの川島雄三映画や『にあんちゃん』、『豚と軍艦』といった今村昌平映画での小沢の芝居は忘れ難い。あのさりげないトボケ具合や助平っぽさは、大好きだった。
名著『私は河原乞食・考』(初版・三一書房;1969年)は、現在も岩波現代文庫で読めるが、死の床に就く直前まで自宅で収録していた『小沢昭一の小沢昭一的こころ』(TBSラジオ)を聴ききながら、ひとりニヤリと笑むことはもうできないのだ。重ねて残念なり。

勘三郎と小沢昭一。相次いで旅立った二人に通じ合うのは、言うまでもなく「芸」への執心であり、その軽妙洒脱さだった。生まれ育ちに違いはあるが、二人とも江戸っ子だった。粋を知っていたし、野暮を嗤う術を心得ていた。そして、二人のそれぞれの芸-”勘九郎”の「平成中村座」も、小沢の放浪芸や”口演”も、向けている目線は決して上からではなかった。通人達人を仰ぎ見ることもなかった。ふつうの庶民の目の高さに照準を置いて、しかも手を抜くことなく演じていた。だから、彼らは愛された。

山中貞雄の映画世界も目線の位置はけっして高くない。彼の時代劇映画は侍も殿様も登場するが、目の高さ・カメラの位置は庶民・大衆の暮らす場所にあり、そういう人々への共感に貫かれている。

鮮やかな絶対演出が冴える『人情紙風船』
『人情紙風船』ポスター

『人情紙風船』公開時のポスター(東宝株式会社1937年)

1937(昭和12)年、拠点を京都から東京に移していた山中貞雄は、P.C.L. 映画製作所で『人情紙風船』を撮る。
P.C.L.(写真化学研究所)は、日本に本格的なトーキー時代が到来する以前から映画フィルムの現像やトーキーの録音など、いわゆるポストプロダクションを専ら行っていたが、1932(昭和7)年、当時の東京府北多摩郡砧村(現在の東京都世田谷区成城)に2ステージから成る本格的な映画撮影用貸しスタジオを建設し、翌年には自ら映画製作にも乗り出した。これがP.C.L.映画製作所で後に東宝映画へと発展する。

『人情紙風船』は、『髪結い新三』として知られる河竹黙阿弥の歌舞伎『梅雨小袖昔八丈(つゆこそで むかしはちじょう)』をベースに、「鳴滝組(本稿その1参照)」からの盟友・三村伸太郎が脚本を書き、四代目河原崎長十郎、三代目中村翫右衛門が率いる前進座が総出演した。現代でも観ることのできる山中作品三本のひとつだ。名画である。

昼の光と夜の闇、陽向と日陰、晴天と雨天・・・。天然のコントラストを効かせた巧みな画面転換が秀逸。その変化によってテンポ良く物語を展開させる。
丹下左膳餘話 百萬兩の壷』とはうって変わって、効果音もBGMもまったく使っていない(本稿その1参照)。だが、山中ならではの「絶対演出」の鮮やかさが随所に冴え、観る者の目を逸らさせない。

年上の親友・小津安二郎に学んだリアリズム

夏の陽射しが余すところなく行き渡る表通り。そこにあることを誇るような、これ見よがしの大店の日除け幕。いっぽう、昨夜降った雨の跡が乾ききらずにうっすらと残る長屋の路地。二間どん突きの長屋の造作は同じでも、住む人と暮らしのありようで異なる庭の景色。美術考証に昭和を代表する挿絵画家・岩田専太郎を起用し、セットはもちろん小道具の一片にまで、リアルな江戸の風情を見事に造形した。

山中貞雄と小津安二郎

小津安二郎(右)と一緒にポーズをとる山中貞雄

独特なローアングルのカメラワークによる構図は、一見ルーズにも感じるが、それら徹底したリアリズムで作り込まれたディティールと相俟って、そこに紛れもなく登場人物たちが生きている世界があることを浮かび上がらせ、それぞれの人物の生きざままでを細やかに物語る。古賀重樹の言う「絵画が映画になる時、映画が芸術になる」(『1秒24コマの美-黒澤明・小津安二郎・溝口健二』)という世界が、ここにもある。

こうした、ディテールに対するリアリズム追求とローアングルの構図によって、人物を身近な存在として細やかに描きだす映像手法は小津安二郎から学んだものだろう。山中が18歳で映画界に入ったときに、6歳年上の小津は既に松竹蒲田撮影所の中心的監督として、年5~6本ペースで作品を量産していた。それらを欠かさず観て傾倒していた山中が小津本人と初めて出会うのは監督デビューの翌年、京都においてだった。たちまち意気投合した二人は、生涯の親友となった。山中の菩提寺に建つ碑文は小津の筆になるものだ。

救いなき悲劇の世界観としての『人情紙風船』

原作の黙阿弥の狂言も陰惨な世界だが、『人情紙風船』も救いのない暗い物語である。何しろ、長屋に住まう老浪人の自死から始まり、同じ長屋に暮らす主人公夫婦の悲しい死で終わるのだから。そして、これが山中貞雄の「遺作」となる。

繰り返しになるが、あの明るい、ほのぼのとした『丹下左膳餘話・・・』と同じ監督の作かと思うほど、希望のない悲劇の世界なのだ。だが、それでも面白く、最後まで引き込まれてしまうのは、山中絶対演出を冴えわたらせた三村伸太郎の脚本も優れて良いからだ。以下、ストーリーを紹介しておこう。

浪人の海野又十郎は妻のおたきと裏通りの長屋暮らしをしている。おたきは紙風船づくりの手内職でたずきを凌ぎながら、夫に仕官をせっついている。
その長屋に、朝っぱらから町奉行所の役人、岡っ引きがやって来て、仕事に出かけるようとした住人たちは足止めを食った。長屋の一寓に住んでいた年配の浪人が、首を括って死んでいたのだ。何で武士が首吊りを・・・と詮索し合う住人たち。又十郎も一緒になって顔を覗かせるが、その途端に住人たちは同じ浪人の彼を気遣ってか、あわてて口を噤む。

又十郎は亡父の旧友で某藩の役職の毛利三左衛門を頼って、父の遺した毛利宛の書状を携え再三仕官の口を求めに行くが、いつも適当にあしらわれ、終にはどしゃ降りの雨の夜、ずぶ濡れになりながら土下座して懇願するものの、邪険に撥ねつけられてしまう。

浪人暮らしでいても武士の妻の矜持を崩さないおたきに、仕官の道が絶たれた事実を告げることができずにいる又十郎。一人長屋の部屋で茫然自失する前で、妻が手内職した紙風船が夕風に漂う。

さて、その又十郎に失望を与えた毛利が頻繁に出入りするのが、質商いの大店・白子屋。そして又十郎夫婦の隣に住むのが、元は髪結で今は無頼の日々を送る新三という男・・・と、ここから歌舞伎『髪結い新三』でお定まりの世界が脚色されて絡んでくる。

白子屋にはお駒という一人娘がいる。毛利は白子屋の財力目当てに、お駒と藩江戸家老の息子との縁談をまとめようとしている。だが、当のお駒は番頭の忠七とデキている。それを聞きつけた新三は、白子屋へ出掛け髪結い道具を質草に忠七から金を得ようとするが、断られた挙げ句、用心棒として白子屋に雇われている地回りヤクザ・弥太五郎源七の一家に熨されてしまう。

腹いせに新三は、お駒を拐かし長屋に連れ込む。嫁入り前の大事な時に、当の娘を掠われた白子屋と毛利は、事を訴えて表沙汰にすることもできず、弥太五郎源七を新三の長屋へと向かわせる。だが、新三の住まいにお駒は見あたらず、源七たちは追い返されてしまう。実はその間、隣家の又十郎がお駒を預かっていたのだ。又十郎もまた、毛利への意趣返しから、無頼の片棒を担いだのだった。折しも妻のおたきは実家に出掛けて留守だった。

『人情紙風船』のワンシーン

『人情紙風船』の一場面。中村翫右衛門(右)と河原崎長十郎(中央)。

話を聞きつけた大家がやってきて、新三に仲介を持ちかける。お駒を帰して白子屋から金を取ろうというのだ。もともとが、忠七への意趣返しと弥太五郎源七のメンツを潰すことが目的で、落としどころを考えていなかった新三は渡りに船と話に乗り、大家と二人してまんまと50両の大金を手にする。期せずして又十郎も分け前を受け取ることになる。

新三の奢り酒に、長屋の男どもは居酒屋へと繰り出していく。毛利への遺恨を晴らした気分の又十郎も、誘われて出掛けていく。すれ違いに長屋へ戻ってきたおたきは、女房たちの立ち話から、留守中の夫の行いを知る。武家の妻の矜持を保つおたきには、それは武士にあるまじき所業である。そして、家に入ったおたきが見つけたのは、濡れて脱ぎ捨てられた夫の着物と又十郎の亡父が毛利宛に記した書状の無惨な姿だった。
その夜、酔いつぶれて眠る又十郎を見つつ、おたきは意を決し懐剣を抜く。
ちょうど同じ頃、浮かれて騒ぐ長屋連中を跡に、一人冷めた表情で新三は出掛けていく。行く先には、源七とその子分たちが殺意に満ちて待ちかまえている・・・・。

あえて視覚化しない決定的シーンの演出

そして、ラストシーン。夜の暗いドブに浮かぶ紙風船。頼りなげに揺れるそこにエンドマークが重なる。又十郎とおたき夫婦、そして新三、それぞれの死は描かれない。

映像としてその場面は視覚化されないが、おたきが眠り込んだ又十郎を刺殺した上で自らも喉を斬って果てたであろうことも、新三が源七たちによって嬲り殺しされたであろうことも、観る者には容易に想像され了解できる。これも、山中流絶対演出の映画作法だ。
同じ表現は『丹下左膳餘話・・・』にも見られる。ちょび安の父が遭難するシーン。やはり描かれない。視覚化されるのは、犬の遠吠えにハッとする左膳の表情だけで、次のカットでは瀕死のちょび安の父親を、左膳がお藤の矢場に担ぎ込むシーンとなる。ちょび安をめぐって度々繰り広げられる左膳とお藤の諍いの顛末シーンも同様だ。

そこに至る直前までの様子は細やかに描いているが、肝心要な決定的シーンは画にしない。場面を視覚化して見せないことで、観る者の想像力が働く余地をも映画として構成しているのだ。それによってテンポの良さと、観る者に目を逸らさせないおもしろさを作り出している。テレビドラマのように、万人に了解されるように描くことが当然とされる映画手法に毒された昨今の日本映画の多くには、こういう表現はない。まさに、山中貞雄ならではの冒険である。

『人情紙風船』は「武士道」を嗤った時代劇映画

山中貞雄最後の映画冒険となった『人情紙風船』。あらすじと独特な演出の鮮やかな一端を記したが、この映画で山中は何を描こうとし、そこにどんなメッセージが込められているのだろうか。

製作当時の日本社会は、世界恐慌以来の不況がつづき、都市には失業者があふれ、農村では毎年のように冷害・凶作が頻発していた。とりわけ昭和三陸地震に見舞われた東北は疲弊し、娘の身売りや欠食・一家離散が問題化していた。国内に見切りをつけ、五族協和の欺瞞を信じて大陸に渡る者も増えている一方で、中国の戦線は拡大・長期化しはじめていた。

ある面現代と二重写しになるようなところもあるが、この映画がつくられた前年の1936(昭和11)年には、就任以来積極的財政出動策で経済を回復基調に乗せてきた高橋是清蔵相による公債漸減政策(軍部予算の海軍陸軍一律削減を含む)を基本にした予算編成に軍部が猛反発、高橋蔵相は同年2月26日に陸軍将校らに殺害される。そう、二・二六事件だ。

不穏な空気と先の見えない不安が社会に漂いはじめていた。そんな時代背景が、この救いのない世界を山中に映画化させたとは容易に忖度できる。だが、この映画に山中が込めたのは、そういう時代の空気への悲観であり、やがて訪れる自分の運命への暗い予感だという評は、いささか短絡ではないかと思う。

『人情紙風船』DVDパッケージ

DVD『人情紙風船』

この映画で山中が描きたかったこと、伝えたかったメッセージのカギは次のシーンにある。

映画冒頭、長屋で浪人が自縊死した報を受けて、町役人が出張ってくるシーン。
長屋住人の一人の男がこう言う。

「侍のくせに首をくくるなんて、おかしいや。侍なら侍らしく、腹を斬りそうなもんじゃねえか・・・。」
もっともなお説におカミさんは、「お歳だったからねぇ・・・」とワケのわからない同情を寄せる。
さすがに呆れて、別の住人がて口を挟む。
「刀がなかったんだよ。」と。
「そんなこと言ったって、毎日長いヤツ一本差してたじゃねえか。」と尚も穿つ男に、その住人は
「あれぁ、竹光だよ。」と明かす。
それでやっと合点がいった男のセリフ-
「そうか・・・。竹ベラじゃあ、腹は斬れねえ。」

そうなのだ。長きにわたる浪人暮らしの切羽詰まった困窮から故人は、「武士の魂」たる真剣を売ってしまっていたために、自死に際して「侍らしく腹を斬」ることもできなかったのだ。だから仕方なく自らを縊死させたのだが、庶民から見ればそれは「武士道」ではなく、単なる「首吊り」である。

「武士道」を捨てず、それを奉ずる宛を求めて浪人を続けながら、遂に果たせず老いて自死を決したときに、「武士道」に従って身を処する方途を失っていたのだ。「武士道」なるものの馬鹿馬鹿しさ、救いがたい不条理がそこにはある。

主人公も同様だ。仕官の道を諦め、「武士道」にあるまじき無頼の行いに加担した夫を許し難く、刺し殺し自らも命を絶つ妻、おたきのありようは、武士の妻としての矜持を通し、「武士道」に殉ずる選択だったのであろうが、貧乏長屋に住まう庶民たちにすれば、何とも不条理な「無理心中」であったろう。

旧友への義侠を顧みず、己の立身保守にのみ意をくだく毛利三左衛門にも「武士道」などない。むしろ、意地のために命を投げ出す新三の無頼ぶりの方が「武士道」に近いかも知れない。

そう。これは、時代劇映画の基調である「武士道」を嗤った映画-「反武士道」の時代劇映画なのだ。

懲罰出征と「反武士道」の真意

かつて山中貞雄のデビュー作リメイクを試みたこともある山本晋也は、この「反武士道」のメッセージが軍部に目を付けられ、結果的にそれが命を早めたと言っている。『人情紙風船』の完成試写当日、山中は召集令状を受け取る。その時彼は、たばこを吸おうとしたものの、手が震え、なかなか火が点けられなかったというエピソードも残っている。

確かに二・二六事件を契機に軍権・軍国主義は日に日に強まり、「武士道」的な精神を鼓舞する言説も高まっていく。そんな時代的主潮に対して、山中の「反武士道」的映画は批判的メッセージと受け止められ、それで軍に睨まれ戦線へ送られたというのはあり得る話ではある。

この時代、そういう恣意的な徴兵召集があったことは、我が敬愛する博大家の一人、駒田信二先生が『死を恐れずに生きる』(1995年;講談社)で語っている。

この書は、駒田先生が死の一週間前までに自ら語った生きざまとことばをまとめたものだが、その中で自身の徴兵経緯について、「どうも言動が怪しいようだが証拠がない。無理に徴兵して戦地へ送ってしまえ」というのを「懲罰出征」であると言い、それによって自分は戦地へ送られたと回顧している。

であれば、この時期、映画検閲などの表現規制・思想統制はまだ後の大東亜戦時下ほど強まっていたわけではないが、完成試写のその日にまるで合わせたように赤紙を送りつけるやり口は、山本晋也が指摘するような「懲罰出征」だったのであろうし、山中自身もそう受け止めたのだろう。そして、自分の運命にも、日本人と日本のこれからにも、『人情紙風船』の世界に通じるようなやりきれない暗い予感を持ったかも知れない。

山中映画は70年後の今観てもおもしろいのだから、当時は人気絶頂で、多くの人々を惹きつけ楽しませた。軍務局はその影響力を恐れて、映画のメッセージまでを殊更に危険視したのだとしても肯える。
しかし、それは山中の意図を超えたことだったと思う。彼の映画の「反武士道」的世界観は、そういう時評的なメッセージなどではなかったはずである。

では何か? それを解き明かすために、もう一度駒田信二の前出書から引用する。
「儒教に根ざした思想は持ちたくはない。権力の側に立って仁政を施すといっても、所詮目の位置は下に向けられているのです。慈悲の衣をまとっていても傲岸不遜さが見え隠れするこのような考え方をわたしは信じません。」。

「武士道」とは、言うまでもなく「儒教に根ざした思想」そのものである。そして、その「武士道」を映画で描き続けたのが「時代劇映画の父」と言われた伊藤大輔だった。矛盾や不条理も含めて儒教的世界観の中に生きる侍や武侠の徒のすがたを、壮絶な剣戟とともに描いたのが伊藤大輔の時代劇映画だった。それに対して、「新しい時代劇映画」を唱え、「反・伊藤大輔」の旗手を任じたのが山中貞雄だった。

時代劇映画という名称とともにその定型をつくった伊藤大輔に対して、反旗を立てた山中がつくる時代劇映画が「反武士道」であったのは、映画作家として当然の道筋であったと思うし、それが彼の映画の世界観でもあった。だから、山中にとっての「反武士道」は決して思想的な次元の観念ではなく、時代状況への批評メッセージでももちろんなかったはずである。

伊藤大輔は伊予宇和島の明治士族の家に生まれた。小山内薫から劇作を学んだというが、その出自育ちから、武士であった父祖のありように、そして世は変わってもなお自らも修身すべきものとしての「武士道」に対して強いコンプレックスを内に抱えていたという。
もちろん、彼の「武士道」は、近代化以降に軍部によって矮小化されていくそれではなく、駒田信二の言う「儒教に根ざした思想」である。駒田が喝破する通り「権力の側に立って・・・、所詮目の位置は下に向けられ」ているものだが、仁政を志し慈悲に満ちた正義の道である。その儒教的正義からだろうと思うが、映画界に入る前の伊藤は左翼運動の活動家で、呉の軍需工場にオルグとして入っていた。前回も記したが、その経歴が軍・特高にマークされ、彼もまた山中の「懲罰出征」と同時期から映画を撮ることができなくなっていく。

一方、山中貞雄は京扇子の職人を父にもち、歴史的に武士の支配が及ばなかった京都の、自由な町の空気と文人・職人・商人が織りなす美的世界を身近に接しながら育った。いわば「武士道」とはもっとも遠いところの環境で感性豊かに成長した。しかも、彼が少年期には既に、京都は時代劇の都でもあった。
父の作る端麗雅な扇子は、言葉合わせのシャレではなく、彼の洒落た<センス>を培ったであろうし、それが扇の要よろしく、映画クリエーターとしての絶対演出力の基底を形成したと思う。そして、自由な空気と、ぐるりが時代劇映画の現場だった町が、天才の感性に軸を与えたと思う。

伊藤大輔の「武士道映画」と山中貞雄の「反武士道映画」-生まれも育ちも、つくる映画の世界観もその背景も、まったく相対する二人の映画監督による、それぞれに抜きんでた時代劇映画が、ほぼ同時代にあったことが、日本映画にとって僥倖であったことは言うまでもない。
とりわけ山中貞雄にとって、対抗し乗り越えるべき存在として伊藤大輔がいて、彼の「武士道映画」があったことが、天才の映画冒険を推進させ、若き巨匠への道を開いたことは特筆すべきだと思う。

山中映画がもっとも表現したかったこと

1937年秋、山中貞雄は陸軍伍長として中国戦線に送られる。だが、それが「懲罰出征」であったにせよ、彼はそれで落ち込んでいたわけでもなく、いたって楽天的で、映画づくりに夢も意欲も、まだまだ抱いていたと思う。

山中は亡くなる8カ月前、南京を訪れた小津安二郎と邂逅している。二人は旧交を温めるとともに、将来つくりたい映画の構想を話し合ったという。彼には、自らが目指した「新しい時代劇」として、つくりたい映画が、映画で描くべき世界が、映像で語らなければならない人間のありようが、まだまだあったのだ。
それは何かと言えば、おそらくは、侍や侠客のヒーロー譚ではもちろんなく、市井に生きる無名の人たちのありよう-そのしたたかなエネルギーであり、何があろうと生きていく明るさへの共感ではなかったかと思う。

『丹下左膳餘話・・・』で彼が描いたのは、虚無的な異形の剣豪ヒーローではなく、その日その日をささやか生きている庶民の明るさ・奔放さであり、彼らと同じ目線で人生を楽しむ、茶目っ気たっぷりな左膳や源三郎だった。

救いようのないような暗い物語だと思えた『人情紙風船』でさえ、実は、情緒豊かで細やかな、喜劇的人間味に溢れた時代劇映画になっている。それは又十郎夫婦や新三以外の貧乏長屋の住人たちの、何事にも動じない、自由で生き生きしたすがたがあるからだ。

愛すべき彼ら長屋の住人たちは、大家の小言や下っ端同心・岡っ引きが吹かす役人風には首をすくめて去いなしながら、その日その日をあっけらかんと生きている。口にこそ出さないが、彼らは「武士道」や「意地」なぞクソ喰らえで、首を括った浪人の通夜にかこつけ、ドンチャン騒ぎの酒宴を催し憂さをを発散するし、新三が命を張った金でも、「奢りだ」と言われればその出所など頓着せずに、無邪気に楽しみ酔っぱらう。そんな男どもを呆れながらも許す一方で、侍でありながら無頼の慫慂に乗った挙げ句に彼らと一緒になって溜飲をさげている又十郎に非難と失望を隠さない女たちも、妻のおたきには思いやり気を遣う・・・。軽やかなアナーキズムと淡彩ではない人情味がスクリーンには満ちている。そんな山中映画が、70年を経た今、とても洒落た映画に思えてならない。

そして、伝説へ

だが、若き巨匠の映画冒険は、わずか10年で終わりを迎える。

南京攻略戦などを転戦していた山中貞雄は、1938(昭和13)年6月、中国軍(国民党軍)が起こした黄河決壊事件に河南省開封市で遭遇する。このとき大量の汚水を飲み込んだことによって山中は、7月に入ると急性腸炎を発病。その後病状が好転することはなく、9月17日戦病死する。享年満28歳。
死を覚悟していたのだろう。病床に残されたノートには「遺言」のように、こう記されていたという。
「日本映画監督協会の一員として一言。『人情紙風船』が遺作とは、チトサビシイ。負け惜しみに非(あら)ず。」
そして、別のページには「友人、知人には、いい映画をこさえてください。」とも・・・。

書きながらの山中の無念さは想像するに余りある。かくして、山中貞雄は伝説的映画監督となり、同時に日本映画はもう一人の世界的巨匠を失った。(了)